コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.31】特別号:飯田正人 ~あれから10年、永世最高位を偲ぶ~

(インタビュー・執筆:鈴木聡一郎)

 

感覚派と言われる独自の強さで最高位を前人未到の10度獲得、その人柄も含め多くの者から慕われた飯田正人 永世最高位。

飯田が亡くなって今年の5月18日でちょうど10年を迎える。そこで今回は、新年特別号として飯田にゆかりのある人物へのインタビューを通して、飯田がどのような選手だったのか、どのような人物だったのかを描くことにした。飯田のことを知ってもらったり、思い起こしたりしてもらえたら幸いである。

飯田 正人(いいだ まさひと)

1949年4月5日生

富山県出身

最高位戦6期(1981年)入会

略歴:早稲田大学卒業後、企業での勤務を経て、池袋の麻雀店『ハッピー』でマネージャーとして勤務することで麻雀の世界に復帰。その後自身の店『リツ』を池袋にオープンする。リツ経営時代に金子正輝とともに最高位戦を受験し、入会。最高位を10度獲得するなど、数々の対局を独自の感覚で制してきた。晩年は再び麻雀店の勤務やゲスト活動をしていたが、大腸がんを発症し、2012年5月18日に亡くなった。

 

「おれの麻雀は見世物じゃない」その精神は今もどこかにはある【新津潔】

まずは現在の最高位戦の代表であり、入会期も近い新津に話を聞いた。

新津 潔(にいつ きよし)

 

最高位戦に入ったのは飯田さんのほうが1年先で、飯田さんが6期(1981年)、おれが7期。年齢は飯田さんの方が5歳上で、最高位戦に入って初めて会ったときには飯田さんが30歳ぐらいだったかな。飯田さんは優孝さん(伊藤優孝)、安藤さん(安藤満)とかと同い年なんだよね。Aリーグの採譜に行って初めて見たときにはめちゃめちゃいかつくてこわかったよ(笑)。

今でこそ新津の見た目もなかなかだが、その新津にこわいと思わせる迫力は並大抵ではない。

(『月刊近代麻雀』1984年8月号より)

飯田さんのうわさは聞いてたんだよね。池袋にあった『ハッピー』っていう麻雀店のマネージャーがめちゃくちゃ麻雀が強いって。

しかし、意外にも飯田はタイトル戦決勝で勝てなかった。

飯田さんは業界内での評価は高かったけど、金子(金子正輝)、井出(井出洋介)、馬場(馬場裕一)辺りのほうが人気あったと思う。放送対局もそんなになく、活字媒体がメインの時代だったからね。飯田さんは文章も書かないし、器用なタイプじゃなくて、自己プロデュースとかもしなかったから。

ところが、14期(1989年)に初めて最高位を獲得すると、そこから潮目が変わる。

初めて最高位獲ったのは39歳だったかな。獲ってからがとにかくすごかった。そこから勝ちまくっていったね。人気に火がついてきたのはその辺から。麻雀は鬼のように強くて、けれん味のない本物の麻雀打ちという感じ。そういうのを徐々にファンがわかってくれていったんだと思う。

 

そんな中、1997年に麻将連合が設立され、多くの選手が最高位戦を退会する。

そのときが最高位戦史上最も人数が少なくなったときじゃないかなあ。全部で30人に満たないぐらいだったと思う。ただ、このときに飯田・金子という誇れる2人が最高位戦に残ってくれたんだよね。これが最高位戦にとっては大きかった。

すると、その飯田が新津に提案をした。

飯田さんに「最高位戦の代表をやってくれないか」って頼まれた。最初は驚いたけど、飯田さんに頼まれたらやるしかないなって。そこからだね、最高位戦の代表になったのは。覚悟を決めました。

飯田から代表打診を受けたとき、逆に新津から飯田にもお願いをしたのだという。そこで、飯田が驚きの返答をする。

代表やるのはわかったんで、その代わり、これからは「メディア」とか「みせる」とかっていうのが大事になってくる時代だから飯田さんも協力してねってお願いしたんだよ。そしたら飯田さんからは「おれの麻雀は見世物じゃない!」って強く反論された。

新津はこの言葉の意味をこう解釈している。

飯田さんって、勝つとか見てもらうとかっていうより、まず最初に良い牌譜を残すことを追求し続けた職人みたいな人だとおれは思ってる。だから、みせるとかっていうのを最前面に押し出すようなことは受け入れ難かったんだと思う。今は配信の時代になって「みなさんに見てもらう」っていうことが当たり前のように重視されているし、そうするように最高位戦も努力しているけど、この飯田さんの言葉は最高位戦の根底にはどこかで流れている考え方のような気もするんだよね。

この意見には納得感がある。おそらく飯田は「良い麻雀をした上で、それを見てもらえるならありがたい」と思ったのだろうし、一方で「見てもらった上で良い麻雀をする」という考え方もあるだろう。確かに新津が言うように、この辺りの感覚は最高位戦の根底に常に共存してきたもののように思われた。

その後、少なくなった人数を増やしていかなければならない時代の舵取りを代表として任された新津は、そのときの飯田の存在についてこう語る。

そういう時期に最高位戦にやってきたのが村上(村上淳)や誠一(近藤誠一)とか。村上や誠一も含め、その後に何人かのスタープレイヤーも出たけど、やっぱり飯田さんは常にいなければならない存在だった。スターなのに、とにかく謙虚で、無骨なところがかっこよかった。当時は・・・今もかな?やっぱり麻雀プロって「おれがおれが」の人が多いから。そんな中にあって、飯田さんはそういうところが全くなかったからね。

では、そんな最高位戦になくてはならなかった飯田正人について、様々な人物に話を聞いていこう。

 

研究熱心なところと、どこまでも麻雀強くなろうとするプロ意識がすごかった【金子正輝】

飯田より年齢は下ながら同期入会の金子に話を聞いた。

金子 正輝(かねこ まさてる)

 

飯田さんは早稲田を卒業して、確か大きな商社かなんかに入ったんじゃなかったかな。でも、やっぱりどうしても麻雀が忘れられなくて麻雀の世界に戻ってきたんだよね。それで池袋『ハッピー』のマネージャーをしていた。飯田さんも最高位戦入る前のこと。ぼくは18のときからハッピーに入り浸ってました。おかげで大学卒業に7年もかかった。当時は学生運動で大学が封鎖されている時代だったからちょうど良かったのかもしれないけどね(笑)。ハッピーには優孝さんとかも来てたなあ。

そこで打った飯田をどう思ったのだろうか。

全く歯が立たなかった。ぼくが18で素人同然だったのもあったんだろうけど、それ以上に飯田さんが強かったんだと思う。で、しばらくしてハッピーを辞めて、飯田さんが立教大学の前に『リツ』っていう店を出したんだよね。お祝いがてら顔を出したら、「おお、かねちゃんいいところにきた。人が足りないから手伝って」って言われて、そのまま働き始めた。

奇しくも、それが金子の麻雀店初勤務となる。

そのころにはぼくも打ち込んでたから、最初の1ヶ月とか1日も負けなかった。そんな麻雀漬けの日々を送っていたら、最高位戦プロテストの開催を知った。

最高位戦はこの第6期(1981年)から現在の公募という形のプロテストになっている。

受けようと思っていることを飯田さんに言ったら、「プロはやめとけ、かねちゃんには無理だよ」って言われた。でも、「いやいや、ぼくは絶対プロになるんだ!」って言い張ったんだよね。そしたら次に会ったときには飯田さんも「おれもプロになる!」って言ってきて、2人で受けて合格した。

 

当時、入会直後にB1・B2の入れ替え戦があり、その結果、金子はB1スタート、飯田はB2スタートとなった。そこから、飯田・金子というライバル2人の最高位戦における戦いの歴史が始まる。

2人共ストレートでAリーグに上がったから、3年目にAリーグで合流した感じだね。そのAリーグも2人で圧勝した。

そして、入会からわずか3年。第9期(1984年)、2人は共に自身初となる最高位決定戦に進出する。結果は全員をマイナスに沈める圧勝で金子の初戴冠となった。その後、飯田は決定戦には残るものの、タイトルには縁がない時期が続く。一方で金子は11、12期(1986、1987年)最高位を連覇するなど、金子時代の到来を感じさせる快進撃を続けた。

(『月刊近代麻雀』1985年2月号より。飯田・金子が初めて最高位決定戦で戦った第9期)

そしたら、「なんで金子ばっかり勝つんだ」って言って、飯田さんがぼくの後ろで見始めるんだよね。もうずっと見てた。そういう相手の研究みたいなところがまずすごかった。ぼくの麻雀を一番理解してたのは飯田さんだったと思う。一方、ぼくは馬鹿だから自分の麻雀を変えなかったんだよね。そしたら、飯田さんにものすごく勝たれるようになっちゃった。

飯田と金子の最高位決定戦における対戦は全13回。そのうち、金子が2回優勝なのに対し、飯田は10回も優勝しているのである。

しかも、飯田さんが最高位獲ったときって必ずぼくがいるの。10回ともだよ?研究されちゃったよね。しかも、飯田さんってどれだけ勝っても少しも天狗にならないの。

金子はこの天狗にならないところが飯田のプロ意識に関係しているのだと言う。

飯田さんってプロ意識がすごく高いんだよね。当時でいうと、他にプロ意識が高かったのは、安藤さん、荒さん(荒正義)とかね。もっと前の世代だと小島さん(小島武夫)とかになるんだろうけど、小島さんはどちらかというとエンターテインメントとしてのプロ意識って感じで、ぼくら世代はとにかく麻雀が強いことに対するプロ意識が高かったっていう感じかな。飯田さんはどこまでももっと強くなろうとする意識が強かった。だからとにかく熱心に、謙虚でいられたんだと思う。そうじゃなければあそこまで強くならないよね。逆に、ぼくは自分のことを強いんだと思ってしまった。それが飯田さんとの大きな違い。

そのプロ意識を原動力に、飯田は金子とともに長きに渡って最高位戦を牽引していく。

人間的にもすばらしくて、飯田さんのことを嫌いな人はいないんじゃないかな。飯田さんが代表をやっていたこともあるんだよ。「向かない」って言って2年で代表やめちゃうんだけど、何か問題が起きると飯田さんが間に入って収まってきた。最高位戦の歴史でもそういうことはいくつもあった。みんな信頼していたし、新津さんが代表になってからもいつも飯田さんの意見は聞いていた。

何回か団体の新設で最高位戦から人数が激減したりして大変な時期もあったけど、その時期を一緒に引っ張ってくれた飯田さんも、今の最高位戦だったり麻雀界の盛り上がりを見たら、「がんばってきてよかった」って向こうから思ってくれてるんじゃないかな。

当時、Aリーグが終わると採譜者や観戦者も一緒に飲みにいっていた。

ぼくは歌わないんだけど、飯田さんはとにかく歌がうまくて、ぼくはいつも『安奈』(甲斐バンド)をリクエストしてた。飯田さんの『安奈』はぼくが一番聞いてるんじゃないかな。

飯田がよく歌っていた曲として『安奈』とともに『セシル』(浅香唯)もよく挙がる。園田賢などは、「飯田さんがよく歌ってた曲だから」と言って若手とのカラオケでもセシルを最近よく歌ってくれる。みなさんもぜひ歌ってみてはいかがだろうか。

 

Aリーグを2人で戦った1年目、半荘6回(親ノーテンでも連荘)を10-23時で打ち、金子はヘトヘトになりながら飯田と2人で竹書房の対局室から飯田橋駅まで歩いて帰ったことがあった。

そこで、飯田さんは「プロになったからにはこんなしんどいことがこれからずっと続くんだな」ってポツリと言った。結局、飯田さんはそのしんどい対局を死ぬまで30年間続けたんだよね。だから、飯田さんが亡くなったときには、ぼくももうやめるのかなってなぜか思った。

すると、金子は飯田が交通事故にあったときのことを語り始めた。

7回目の最高位獲ったぐらいのとき、飯田さんが交通事故で大怪我負ったんだよ。見舞いに行ったら全身ギプスだらけで、医者からは一生車椅子になるかもしれないと言われたらしいんだよね。そのときに「車椅子じゃ、もう麻雀打てないのかなあ。かねちゃんとまた麻雀打ちたいなあ」ってしみじみ言うんだよ。こっちもしみじみ聞いてたんだけど・・・そしたらその後3回も最高位獲られちゃった(笑)。

飯田は事故からの復活を遂げた。今度は金子が復活する番なのではと期待してしまう。手術から1年以上を病院で過ごしている金子の近況を最後に聞いた。

今度はおれが車椅子になっちゃったよ。上半身は元気で麻雀打てる状態なんだけども、褥瘡が治んないと長時間座れないから麻雀できないんだよね。

「麻雀が打てる状態」という言葉に心が踊った。電話では終始元気な声で応えてくれた金子、その復活をみなが待っている。

 

麻雀店を共同経営。勝ちまくっても嫌われない人柄【阪元俊彦】

阪元 俊彦(さかもと としひこ)

 

阪元は現会員の中で最も入会期が早く、飯田よりも1期先に入会している。1年後に入ってきた飯田に対してどのような印象を持ったのだろうか。

またこわい人が入ってきたなあと思った。

いや、阪元も大概こわそうだと思うのだがそれは置いておく。

年齢は飯田さんのほうが3歳上。おれが遅れてAリーグに昇級して、そこから話すようになった。やっぱり昔ってやんちゃな人が多かったから(笑)、まともそうな飯田さん、狩野さん(狩野洋一)、嶋村さん(嶋村俊幸)、清水さん(清水昭)を誘って『若いおじんの会』っていうのを作ったんだよね。おれが最年少で、定期的に飲みいったりして、旅行とかも行ったなあ。その辺りで飯田さんと仲良くなった。

当時、飯田・阪元はともに麻雀店を経営していた。

飯田さんが池袋で『リツ』、おれが巣鴨で『アルファ』っていう店をやってたんで、間の大塚でよく飲んでた。ただ、しばらくしておれは店を畳んで、飯田さんのお店もいい状態ではなかった。そこで、飯田さんの店を名前だけ残して、ルールとかは全部変えて心機一転2人でやっていくことにした。

阪元が40歳、飯田が43歳の頃である。その頃といえば、飯田が16期(1991年)に最高位を3連覇したところで、飯田人気に火がついているときである。

後から聞くと、多くの最高位戦選手が2人でやってたころのリツに行ってたって言うんだよ。3年ぐらいやってたかな。対局の日以外はけっこう飯田さんと2人で飲みに行ってた。酒癖はすごく良くて、陽気な感じ。

すると、阪元が興味深いことを語り始める。

そういう人柄とかもあるんだろうけど、飯田さんって麻雀強いから店でも勝っちゃうんだよ。でも、お客さんから全然嫌われないんだよな。どんなに勝っても、飯田さんが店に来ると「飯田さん、こっちこっち」ってみんなが打ちたがる。リツを閉めた後には麻雀店でのゲスト活動もかなりしてたけど、そういう話が途切れない人だったね。そこがすごいと思った。

 

リツを閉めると、阪元は今もやっている麻雀教室の方へ進んだ。そこで生活スタイルの違いから、飯田と頻繁に会うことがなくなったそうだ。そんな身近で飯田を見ていた阪元は、飯田の麻雀をこう表現する。

飯田さんの麻雀は説明がつかない。金子に対してはがんばればもしかしたら勝てるかもしれないと思ったけど、飯田さんにはがんばっても敵わないと思ってしまった。そこで、打ち手としてのおれは終わったんだと思う。

阪元は、取材までの1週間ほど、何を話すか考えてきてくれたと言う。

考えて眠れなくなっちゃった。しかも、思い出すのは使えなさそうな話ばっかりで(笑)。

さぞ楽しい思い出なのだろう。阪元と飲みに行ったときなどにぜひ聞いてみてほしい。そんな阪元は、同じように教室をやっている宇野(宇野公介)を紹介してくれた。

宇野 公介(うの こうすけ)

 

ぼくが教室をやっていたんですが、飯田さんと一緒に何かやりたいってお願いして、『飯田宇野教室』が始まりました。今最高位戦にいる選手も入会前に何人か来てたりします。飯田さんと打てたり見てもらったりするような教室ですね。当時の飯田さんって、今の多井さん(多井隆晴)みたいな感じのスターですよね。「えっ!?飯田正人がいんの!?」みたいな。なので、みんな飯田さんと打ったり話したりできるのはうれしかったんじゃないかなあ。

ここで気になるのは、飯田が教えていた内容である。

飯田さんってめっちゃくちゃ優しいんですよね。例えば何切るで叱ることはない。じゃー何を指導するのかっていうと、牌の残し方ではよく叱ってました。何を切るかではなくて、なぜその牌を残しているのか、どういう構想を持っているのか、そういうことを考えながら「絶えずプレッシャーをかけ続けろ、ただ座ってるな!」ってよく言ってました。

間合いや押し引きを大事にする飯田らしいコメントだ。

その教室にぼくの教室からも生徒さんたちが来てくれたりして、その後飲みいったりするんですけど、ある日飲みにいくのめんどくさいって飯田さんに言ったら「ファンは大事にしなきゃダメだよ、宇野くん」って優しく諭してくれました。

「おれの麻雀は見世物じゃない」と言った飯田が、「ファンを大事にしろ」と言う。結局飯田は、見てくれる人たちの大事さも十分理解していたのである。

 

同い年だが兄貴のような存在。今でも2人で語り合った夢を追っている【伊藤優孝】

ここまでのインタビューでは後輩という立場から飯田について語ってもらった。では、同年代からはどのように映っていたのだろうか。同い年の伊藤優孝(日本プロ麻雀連盟)に話を聞いた。

 

伊藤優孝(いとう ゆうこう)

第9期鳳凰位、第36期十段位、第3期最強位、第6、7期發王位など

当時、東京に有名な店がいくつかあって、例えば新宿の『東南荘』で阪元と出会ったし、池袋の『ハッピー』にも行っていた。

ハッピーで、マネージャーをしていた飯田と出会った。27歳前後のころだという。

漫画家さんが集ったトキワ荘ってあるじゃない?当時、若い打ち手が集うトキワ荘みたいな感じだった。金子は背が高いのに下駄なんて履いてるもんだからものすごくデカかったりしたのを覚えてる(笑)。

そんな中、最高位戦Bリーグへのプロテストが開催される。伊藤も受けることになっていたが、「他にいい若手を知らないか」と尋ねられた。

そこで、ハッピーでも強いのは知ってたし、飯田、金子っていうのはセンスが良いと思うよって推薦した。

その直後、プロ連盟ができて伊藤はそちらに行くことになるが、それでも飯田との親交を深めていった。

飯田は生真面目で、おれも飯田もボクシング部っていう共通点があった。同い年だけど、飯田は兄貴みたいな存在だった。例えば、おれも若かったからチャラチャラしてたときもあったんだけど、そんなときに飯田は「優ちゃん、しっかりしないとダメだよ」とかって親身になって説教してくれるんだよ。飯田の落ち着いたトーンでそういう風に言われたら、ああそうかもなって自然と思えた。

それは店の責任者としても同じだったそう。

飯田って、なんか雰囲気的に強そうなんだよな。だから、飯田の店では対人的なトラブルとかほとんど起きなかった。人柄も良いし、飯田にはみんな言う気なくなっちゃうんだよな。

 

そんなとき、『麻雀グランプリ』という企画が始まる。

F1グランプリみたいに、各地を周りながら戦っていく感じ。おれと飯田も出てて、他にはプロ連盟から小島(小島武夫)、灘(灘麻太郎)、荒(荒正義)、安藤(安藤満)、森山(森山茂和)、土田(土田浩翔)、最高位戦から井出(井出洋介)、金子(金子正輝)辺りが出てたかな。確か、飯田は何回か総合王者になってたと思う。

当時はバブル経済全盛期。海外が舞台になることもあったという。

ラスベガスで開催されたこともあった。で、終わったらいつものように飲みにいくんだけど、ラスベガスだからカジノでもちょっと遊んだ。でも、飯田って麻雀以外のゲームは全然ダメなんだよな。バカラって基本的に1/2のゲームなんだけど、飯田はとにかく勘が悪くて、おれは飯田が途中で10回中9回ぐらい負けてることに気づいた。で、そこから常に飯田の逆に張るようにして勝たせてもらったよ(笑)。そしたら、飯田は「優ちゃん、ひでえよなあ」って笑ってた。

一方、麻雀については全く逆の印象を持っていると言う。

麻雀では本当に勝負勘が鋭い。いき時オリ時が体に染み付いてるんだろうな。どんくさい印象は抱かせるけど、どっしり構えて、いくとなったら真っ向勝負。だから『マッコウクジラ』とか『大魔神』とかって呼ばれてたよな。

ここで、伊藤は相撲の張り手で押し出すようなジェスチャーをしながら表現する。

大魔神ってのはすごくいい名前だなと思った。大魔神みたいにずん、ずん、って少しずつ押してくる感じなんだよな。勝率もたぶんおれのほうが負け越してるんじゃないかな。対局を見た桜井(桜井章一)さんが「飯田はなかなかいいな」って好意を持った言い方でほめてるのを聞いたことあるけど、桜井さんが当時麻雀プロをほめたのを聞いたのは唯一かもしれないな。

伊藤は、最高位決定戦を観戦にいったこともあった。伊藤と中学の同級生である久保谷寛が飯田と決定戦を戦うというので見に行ったのだそう(1990年の15期最高位決定戦)。

久保谷ももちろん強いんだけど、やっぱり飯田が強くて優勝した。終わった後に一緒に見てた安ちゃん(安藤満)も「肝の座り方が違うよね」って言ってて、おれも全くそう思った。当時、飯田の打ち方を批判する人もいたのよ。「なんで点数持ってるのにここでいくんだ、守ればいいじゃないか」みたいな。そういう意見もわかるけど、おれとか安ちゃんは逆にそれを「肝が座ってる」っていう風に評価してたんだよな。

独特の勝負勘による飯田の選択は、言語化が苦手なことも相まってなかなか理解されなかったとしても確かに不思議ではない。

麻雀プロの中でも飯田の麻雀を批判する人たちもいて、直接そういう意見を飯田に言う人もいた。でも、飯田は麻雀についてどんなに悪口を言われてもいつも笑って聞いてるだけだった。

 

伊藤はそんな飯田に対してこう思ったそうだ。

兄貴ってだけじゃなくて、尊敬もしてた。麻雀プロで、すごいとか面白いとか麻雀が強いとかって思う人はいるけど、尊敬してる人っていうのはなかなかいないんだよな。飯田は、やさしいし、男気があって懐が深い。もし「どういう男になりたいですか?」っていう質問に、「飯田正人のような男になりたい」と言うやつがいたら拍手を送ってしまう。だから、後輩たちにはそうなれるように導いてきたつもり。

おれ、飯田、金子、安藤辺りでよく飲みに行ってた。阪元とかもついてきて。阪元は顔怖いよな、飯田のボディガードって感じだった(笑)。飯田だったり安藤だったり、もう少し時代が違えばMリーグにも出てたんだろうなと思うこともある。

伊藤が飯田と話すとき、いつも2人で夢見ていたことがあった。

色んないきさつがあって色んな団体ができた。色んな団体があることでいいところもあるけど、外からバラバラに見えてしまうのはよくない。今後もっと麻雀を普及していくためには、それだといけないと思う。どういう形かはわからないけど、麻雀界が一つにまとまることを飯田と夢見ていたし、「そうなってほしいよね」って2人でいつも話してた。おれは今でもそれを夢見てるよ。まだまだ小さい世界だから、団結していかないとな。

今や多くの麻雀プロにとって偉大な先輩であり兄貴である伊藤優孝。そんな伊藤はインタビューを終え喫茶店を後にすると、「こういう機会がないと昔のことをしゃべることないからな。今日は楽しかったよ」と言って颯爽とゲームセンターに麻雀を打ちに向かった。多忙な年末の時間を快く割いてくれた伊藤。その懐の深さに飯田の姿を重ねた。

 

今思えば戦術っていうのは削ぎ落としていくべき。その究極形が飯田さん【古久根英孝】

次に、飯田より8歳下でさらに入会期も6年ほど後になる人物に話を聞いた。

古久根英孝(こくね ひでたか)

第26、27、30期最高位など

 

飯田さんと出会ったのは最高位戦に入ってからだね。ぼくは12期(1987年)に最高位戦に入って、採譜とかも含め(Aリーグに上がるまでの)2年間Aリーグをずっと見てた。そこで飯田さんが強いと思ったのが初めて意識したときかな。

そのときの飯田の印象はどのようなものだったのだろうか。

ブルドーザーみたいにどっしり構えて全員をなぎ倒してく感じだね。でも、決勝になると弱かった。最高位決定戦では、リーグ戦と比べて引き気味になるんだよね。だから、その瞬間の実力では金子さんが抜けてる印象だったかな。

私が入会した29期(2004年)には飯田・古久根が互いに最高位を獲り合い、金子も含めて3枚看板のような状態だったが、その17年前の評価が興味深い。

でも、飯田さんが14期に初めて最高位を獲るんだよね。そのときぐらいから、今までと一変して勝負するようになったなと思った。より懐に入るようになった印象。

 

そして、その後、古久根はストレートでAリーグまで上がり、16期(1991年)に2回目の最高位決定戦に進出。その舞台が飯田との初対戦となった。

決定戦の相手は、飯田、金子、阪元、という、こちらからするとオールスターみたいなメンツだった。当時は一発裏ドラ・ノーテン罰符がない旧最高位戦ルール(現在の最高位戦Classicルール)だね。

全24回のうち1回戦目の東1局、古久根はじっくりいこうと考えていたが、思い通りにいかなかったと言う。

6巡目ぐらいに金子さんのテンションが急に上がったのを感じたんだよね。そうしたら、それに合わせて飯田さんがツモ切りリーチしてきた。で、そのまま2,000・3,900をツモられる。そこで気づいたのは、対局に向かう姿勢が全然違うなってことだった。

結局、古久根はその決定戦で飯田に敗れる。

 

このままじゃ勝てないと思った。独学では無理だなって。牌譜は見てたけど、それだけじゃ足りないなって。そこで飯田さんに一緒に研究会やってほしいってお願いしたんだけど、それは断られた。でもセットならいいよってことで、1度だけセットをしてもらった。

そのセットは、終局後に倒牌して話をするというものだった。

倒牌して話を聞きたかったんだけど、飯田さんはそれが苦手だった。説明するのがすごく苦手なんだよね。で、こういうのはやっぱり無理だなって飯田さんが言って、結局その日だけでセットは終わった。

その後、研究会や観戦によって古久根は独自の研究を進めた。そして、後にその成果を最高位戦の後進に余すところなく伝えていくことになる。そんな古久根が思う飯田のすごさはどんなところにあるのだろうか。

まず、飯田さんは独学なのがすごい。麻雀を独学であそこまで突き詰められてる人って見たことがない。裏を返せば、独学だからやっぱりインプット量に限界はあるから、戦術そのものは少ないんだよね。でも、今にして考えると、最終的に戦術っていうのは削ぎ落としてギュッと絞り込んでいくべきだと思うんだよね。それが最も安定するスタイルで、その究極形が飯田さん。飯田さんの打ち筋はベースが決まればブレにくくなってる。逆に、ぼくとかは器用で色々やれちゃうから迷うことも多くなる。

 

これに加えて、古久根が2つ目に挙げた飯田のすごさも興味深かった。

飯田さんは毎対局でいわゆる「ゾーン」に入っているような状態だったんだと思う。これはすごいことで、トップクラスのアスリートでもメンタルトレーナーとかを付けてようやく少しできるようになるぐらいのこと。普通1人では到底できることじゃない。極限の集中状態を作り出していたってことに関しては最高位戦史上ダントツだと思う。たまに首かしげているときは、ゾーンから抜けちゃってるときだったと思うね。

実は古久根、飯田がゾーンに入っていると気づいたのはもっと後になってからだと言う。古久根入会から16年後の2002年、現行の最高位戦ルール(一発裏ドラ、ノーテン罰符あり)で行われた全24回の最高位決定戦は残り2半荘となっていた。

ポイント順に宇野(宇野公介)、飯田、ぼく、新津という並び。残り2回で80ポイントを詰めなきゃいけないという状況だった。そのとき、ぼくはものすごく集中していて、周りが無音になったんだよね。で、予測したことが本当に起きるし、超高速で選択できるようになる感じで、ブレもなくなった。そこで「ああ、飯田さんはいつもこういう状態を作り上げて戦っているのか」って感じた。

古久根はその決定戦で飯田を下し、史上4人目となる最高位連覇を成し遂げる。その古久根は、飯田が集中状態を作り出せていた要因をこう分析する。

ルーティンがものすごく大事。決定戦のときとかは特に、対局1ヶ月前ぐらいから準備してたんだと思う。ぼくはそうしてるから。あと、飯田さんも14期(前述の飯田が攻め勝って初最高位を獲得したとき)に開眼したんだと後から思った。あのときだなって。

(『月刊近代麻雀』1984年8月号より。確かに、飯田は体調管理について言及していた)

そう振り返る古久根にとって、飯田はどのような存在だったのだろうか。

今思うと、飯田さんがいたから自分が進化できた。だから、一番大事な人だったのかもしれない。ほとんどの最高位戦選手がそうだったと思うけど、飯田さんや金子さんの背中を見て精進した。飯田さんみたいに懐に入って勝負するって、点数持ってるときにはできないものだよね。だけど、それができないと決勝ではなかなか勝ちきれない。飯田さんはそういう勝負の仕方について、お手本を見せてくれた。いつ踏み込むか、どんなときに踏み込むか。

飯田さんって麻雀の内容自体は凡庸なんで、ぼくは若いときには良さがわからなかったんだよね。一方、金子さんやぼくはキレがあるタイプから、見栄えが良い。でも、ぼくも最高位を連覇してゾーンに入った経験もして、その辺りで飯田さんの強さがわかった気がした。

 

ここまで飯田の麻雀全体に対する印象を聞いたが、さらに古久根は具体的な飯田の強さについても語ってくれた。

飯田さんはリーチがアガリに結びつく、いわゆるリーチ成功率がものすごく高かった。これはたぶん旧最高位戦ルールで培われたものだと思う。旧最高位戦ルールって、リーチというファクターが難しいんだよね。当時、役ありでリーチする人は1割ぐらいだったと思う。そんな中で、飯田・金子はリーチ派。飯田さんはアガれるリーチをたくさんかけてた。それは現在の最高位戦ルールに変わっても武器になってたね。

一方で、古久根はルール変更に伴う飯田の変化にも気づいていた。

今のルールになって飯田さんが変わったところがあって、それは東場の親番でとにかく先制リーチをかけること。それで先手を取っていく感じ。東1、2局の親番とかだと、1回目のリーチはほとんど捨ててたんじゃないかな。流局でもいいって感じで。そういう、自分の親リーチでとにかく主導権を取っていくようになったのが変化で、飯田さんなりの対応だったんだと思う。リーチの使い方がうまいから、連荘率がすごく高かったよね。

共に長年戦ってきた者の分析には説得力がある。

 

最後に、人間としての飯田について聞いた。

嫌なところが一切ない人だった。ぼくは悪口とかけっこう言うタイプなんだけど、飯田さんには何も悪口が出ない。ぼくとは大違いだね(笑)。そういえば、人づてに聞いたんだけど、ぼくがまだタイトル獲ってないとき、「古久根っていうのは一度勝ったらやばいよ」って言ってくれてたらしいんだよね。で、実際に1回獲ったところから計3回最高位を獲った。そういう風に見ててくれたのもうれしかった。

古久根は最高位戦を離れてしまったが、当時と変わらない理路整然とした受け答えに、飯田と戦っているころを想起した。

 

「戦いはずっと続くんだぞ」最高位戴冠とともにわかった意味【近藤誠一】

飯田の『大魔神』という名を受け継ぎ、『大魔神の系譜』と呼ばれるのが近藤である。

近藤 誠一(こんどう せいいち)

 

23歳のとき、金子最高位を倒したいと思って1度最高位戦の試験を受けるんだけど、落ちたんだよね。落ちたから一区切りだと思って、そこからは麻雀にかかわらないようにしてた。10年後、仕事の塾講師をやめてゆっくりしてたとき、そろそろ働くかなと思ってバイトを探すためにバイト雑誌をコンビニに買いに行った。そしたら売り切れてたんで、久しぶりに読んでみるかと近代麻雀を買って帰った。

すると、そこには季節外れの「プロテストのお知らせ」があった。麻将連合ができ、多くの選手が退会したタイミングで、補充するために急遽プロテストを行うものだった。

そこからは記憶がないんだよね。気づいたら、夢遊病者のように願書を出していた。それで受かって、22期(1997年)に33歳で最高位戦に入った。そこまでは麻雀にかかわらないようにしてたから、この10年の年表を振り返ろうと思って歴代最高位を見たら、おれより先に金子正輝にいっぱい勝ってる人がいた。それが初めて飯田さんを意識したときだね。

 

そこから近藤は、Aリーグの採譜に頻繁に入るなど、金子への思いも持ちつつ飯田を見続けた。

おれは新津さんとよく飲みに行ってたから、採譜の管理者が気を利かせて新津さんの後ろにつけてくれたりするんだけど、そのたびに「違う違う、飯田さんがいいのに」とか思ってた(笑)。

すると、近藤は誌面でのとある企画に呼ばれる。

それが『飯田道場』っていう企画で、飯田さんに麻雀ファンの方が挑戦しに行くっていうものだった。その脇2人を門下生が固めるっていう感じで、その門下生に選んでもらったんだよね。飯田さんと初めて打ったのはそのときかも。

終わった後に飯田さんが他の人と「彼(近藤)いいね」って話してるのが聞こえてうれしくなった。それを新津さんに自慢したら、「飯田さんはみんなをほめるんだよ。でも飯田さんがほめた人って大体ダメだから(笑)」って言われて笑った。

 

この企画は雑誌の廃刊とともにすぐに終わってしまったが、近藤は最高位戦のリーグ戦で勝ち続け、Aリーグまであと一歩に迫る。

次点でAリーグに上がり逃した翌年、最終日をかなりポイント持って打てる状況だったから、いけると思って舞い上がってた。で、いつものように飯田さんがゲストに入ってるお店に打ちにいって、そのことを話したら、それを諌めるように飯田さんから「戦いはずっと続くんだぞ」って言われたんだよね。

近藤は、そのときにはその言葉の意味を受け取れなかったと言う。

意味がわかったのは、37期(2012年)の最高位決定戦に臨むとき。その言葉をもらって10年も経ってからふと思い出したんだよね。飯田さんが亡くなった直後というのもあって。

飯田の言葉を近藤はこう解釈した。

そのときに勝っても麻雀はその後も続くわけで、例えば最高位にでもなろうものなら、もっと責任を持って、もっと勝たなきゃいけない。目の前の最高位獲得を考えるのではなく、その先も続くことを見据えてやらなきゃならない。たぶんそういうことなんだろうなと自然と解釈できた。

そういう風に解釈したことにより、自然体で決定戦に臨めたのだそうだ。

勝ちたい気持ちばっかりだと焦ってやらかしちゃうもんなんだよね。だけど、「麻雀が続く」ということは、「今日の(決定戦の)麻雀もこの先強くなるための礎だ」と思えるようになった。

そういう心構えも含め、感覚派と言われた飯田の後を継ぐように感覚派に生まれ変わった近藤は、この決定戦を制し自身初となる最高位を獲得する。

 

あと、飯田さんには「泣くな」っていうのも言われた。協会(日本プロ麻雀協会)ができて多くの人が退会していったとき、おれは最高位戦運営の中心にいたから、それをみんなの前で説明しなきゃいけなくて、そのときに泣きそうになっていた。そのときに「泣くな、誠一」って言われたんだよね。

確かに、飯田はいつも笑っていた。最高位就位祝賀パーティで最高位就位を表彰されても「また勝っちゃいました~」とひょうきんに笑って両手を上げる。そんな明るい人だった。

飯田さんに泣くなって言われてから、勝っても負けても泣くまいと思ってやってきた。危ない場面は何度もあったけどね。初めて最高位獲ったときに村上が先に泣いちゃって、「おいおい、やめろよ。もらっちゃうだろ」って思ってた。泣きそうなときには深呼吸するようにしてる。

ここで、同席している有賀も話に入ってきた。

有賀 一宏(あるが かずひろ)

 

有賀は15年ほど前、飯田が亡くなる5年ほど前から勤務していた高円寺の店でシフトを管理しており、晩年には飯田のマネージャーのような存在として身近で飯田を見てきた。その高円寺の店にも、近藤は毎日のように通っていたのである。

有賀 誠一さんが最初に最高位獲ったとき、誠一さんが高円寺の店にトロフィー持ってきてくれたんですよ。お店に置いてくれないかって言って。気持ちはうれしいけど、ちょっとそれはさすがに抱えきれないんで断ったんですよね。

近藤 そうそう、有賀がいるときを狙っていったんだよね。だけど置いてもらうのは無理ってことだったんで、打ってないときに飯田さんがよく座ってた席があったんだけど、そこに少しの時間だけトロフィーを置かせてもらった。取り返してきたよって。

有賀 ぼくはそれ見て一気に涙腺が緩んじゃった。仕事中だったのに。

近藤 飯田さんとの出会いがなかったら今のおれはないから、飯田さんには報告したくてね。1周忌のとき、富山までお墓参りに行ったんだよ。ちょうどその年にタイトルを獲った聖誠(佐藤聖誠)、谷井(谷井茂文)と一緒に優勝カップを並べに行った。別のときに張(張敏賢)と平賀(平賀聡彦)も行ってた。

有賀 ぼくもタイトル獲ったらお墓参りいこうと思ってるんですよね。でも全然獲れないんですよ(笑)。

 

ここから話の中心は有賀に移った。飯田の晩年を最も近くで見てきた者の1人として、どのような話が出るのだろうか。

お店で全部成績管理してるから成績見返すんだけど、おれもそこそこ成績良かったのね。オカというトップボーナスがあるから、おれはトップラス麻雀で勝ってる感じだった。でも、飯田さんはトップ率こそ26、7%ぐらいでそんなに高いわけじゃないんだけど、ラス率が15%ぐらいしかないの。それで平均着順も2.25とかで、全国でダントツだった。それが5,000戦ぐらいでの成績だからね。信じられなかった。

その衝撃を受け、有賀は即行動に移す。

これは学ばなくては!と思って弟子入りを申し出たんだけど、断られた。言葉にして人に教えるのが苦手だからって。

ここは若いときからブレない飯田らしいところである。

じゃー、飯田さんの麻雀見ててわからないことがあったら聞くんで、できる範囲で答えてくださいって言ったら、ああそれぐらいならいいよって言ってくれた。でも、何度聞いても答えは大体「なんとなく」なんだよ。

これには近藤も同意し、「あの人の答えは本当に酷かった。おれは3回目で答えてもらうのを諦めた」と笑う。

本当に言語化が苦手だったんだと思う。ただ、やってることはかなり合ってたんだと思うね。だから本当にいわゆる感覚派だよね。そんな感じだから、見て学ぶしかなかった。こういうときにはこうするんだな、って自分の中で言語化して学んだ。

すると、成績に変化が起きる。

トップ率が少し下がったんだけど、ラス率がすごく低くなったんだよね。トップラス麻雀から負けにくい麻雀に安定した感じで。

そんな有賀は、飯田の日常に驚愕する。

すごいなと思ったのは、あれだけ勝ってたのに麻雀に対して天狗じゃなかったところ。いつも右後ろのポケットに手帳が入ってるんだけど、朝9時から夕方5時までの勤務が終わると、その日の反省点を毎日記録していた。見せてもらったことはないけど、半荘ごとに書いてるって言ってた。そもそも1日10半荘以上打つのに、それを細かく覚えてるのがすごいし、勝ち続けてるのにそこまで丁寧に反省し続けられるのもすごい。

人ってタイトル1個でも獲ったらその瞬間ぐらいは浮かれてもいいと思うんだけど、そういうのが一切なかった。麻雀を教わったわけじゃないけど、そういう麻雀プロとしてのふるまいは勉強させてもらった。

 

やさしいけど表に出さない天の邪鬼【飯田尚子】

(写真左が奥様の飯田尚子さん、同席した近藤誠一と2人で)

最後に、家庭での飯田について、奥様の尚子さんに話を聞いた。そもそも飯田とはどのような出会いだったのだろうか。

知り合ったのはお互い東京に住んでるときで、当時住んでるところが近かったんです。近所の食事処が一緒で、カウンターで会うのが4回目ぐらいになったころからだんだん席が近くなって、近くのスナックに一緒に行ったりして。私の成人式のときに一緒に写真も撮りましたね。そして、私が22歳のときに結婚しました。主人は7歳上です。

(写真:飯田夫妻の結婚式)

その翌年に第1子が誕生。女の子だった。そしてすぐに2人目の男の子も生まれる。

主人は子供が好きでした。一緒になって遊んでくれる感じで。子供が横道に逸れなかったのは主人のおかげだと思っています。子供もお父さんのことは自慢しているみたいです。考え方や行動が主人にそっくりで。主人が子供に自分から麻雀を勧めることはありませんでしたが、男の子の方は、対抗心みたいなものなんでしょうね、いつの間にか始めていました。

(写真:2人のお子さんと)

尚子さんはそう微笑むと、今度は麻雀プロ飯田正人の妻として、飯田のことを話してくれた。

私は麻雀のことは全くわからないんですが、麻雀の試合って疲れるんでしょう?

その問いには、同行した近藤が「ものすごく疲れますし、特に飯田さんは何かをすり減らしてやっていたような印象を受けました」と答えた。

やっぱりそうなんですね。体調管理についてはすごく気にして、考えてやっていたと思います。アスリートと同じような感じなんでしょうね。特にメンタル面で疲れるみたいでした。

この辺りで古久根の「試合のかなり前から調整に入っている」という分析を思い出し、合点がいく。

麻雀や生活のことも含め、何でも相談なしにやる人でした。でも、そういう自立した考え方や、自分の見識を広くしてくれるようなところは好きでしたね。経済面では苦労しましたけど、精神面では成長させてもらったと思っています。

喧嘩することもあって、喧嘩友達みたいな関係でした。お互い挑発し合うような感じで。私は子供2人抱えて教習所に通ったりもしたので、私はよく「あなたは麻雀の牌以上重いもの持ったことがないじゃない!」って喧嘩のときに言ってましたね(笑)。でも、思い返せば、いい思い出しか残っていないです。主人の義足も押入れに取ってあるんですよ。

ここまで取材したすべての者がそうだが、飯田の話をしているときには不思議と笑顔になる。それは、最も身近な存在である尚子さんも同じだった。

(写真:尚子さんと2人で)

やさしいけど、それを表に出そうとしないんですよ。天の邪鬼なんでしょうね。

尚子さんは飯田のことをこう表現したが、これには私も心当たりがあったので後述する。

お酒が好きで、ワンカップ飲みながら帰ってきたりもしました(笑)。焼酎系が好きで、レモンサワーをよく飲んでましたね。でも、最期は私の半分ぐらいの細さになっちゃって、辛そうでした。

大腸がんが進行しているそんな状態で臨んだ対局が最期の対局となる。きっと自身の中では満足のいく調整などできなかっただろう。それでも、飯田は見事に大逆転優勝を果たしてみせた。飯田が逆転していく様子を、ある者はこう言った。

「命をすり減らして戦っているようだった」

またある者はこう言った。

「飯田さんがアガるたびに、飯田さんもういいよ。そんなにアガったら死んじゃうよって思ってしまった」

強い飯田が見たい。でも、飯田に生きてほしい。そんな葛藤が生まれる、文字通り命懸けの対局だった。

私たちはその姿を絶対に忘れることはないだろう。

 

そのうち休みを取って富山(のお墓)に会いに行きたい」と語る尚子さん。取材場所を後にすると、「健康に気をつけて長生きしてくださいね」と、笑顔で見送ってくれた。

この「長生きしてくださいね」という言葉の重みを感じながら、近藤と私は「はい!」と元気に返し、お礼を言って尚子さんと別れた。

 

おわりに~初めて身近な人の口から名前を聞いた麻雀プロ~

今から20年前の2002年3月、高校を卒業し、大学入学に向けて準備を進める私に父が言った。

「飯田正人って人が麻雀プロやってるらしいから、東京行ったら飯田さんがいるお店に遊びにいくといいよ。強いから」

これが、身近な人の口から初めて聞いた麻雀プロの名前だった。

父に聞けば、学生時代にたまたま打ったことがある飯田という名前を誌上で見つけ、麻雀プロをやっていると知ったのだそうだ。

その飯田に会うべく、現在の『ウェルカム』高田馬場店の場所にあった『もでるず』というお店に飯田がゲストのときに打ちに行った。とにかく強かった。押し引きが独特で、何をされているのかわからないまま負かされた。そんな負け方は、人生でそのときだけである。

その『もでるず』で沖野立矢に誘われ、最高位戦に入会した私は観戦記者として活動するようになる。すると、飯田を取材する機会はすぐに訪れた。

第17期發王戦決勝

最終的に水巻渉が優勝するのだが、水巻が最終戦を前に飯田に怯えていたのが印象的だった。水巻にとっても、得体の知れない強さ、そんな感じだったのだろう。

飯田との話は大体ふんわり始まる。

おっ、加藤!元気か?

鈴木です。

わかってるよ、鈴木つよしだろ?

はい、聡一郎です。

これまで聞いてきた関係者の話とは裏腹に、私が麻雀の質問をすると、かなり丁寧に説明してくれた。もしかしたら、観戦記者に答えるのは麻雀プロの仕事だ、というプロ意識があったのかもしれないし、私の雀力が低かったから答えやすい質問になっていただけなのかもしれない。私が一通り質問を終えると、隣にいる沖野が「ところで、こいつの名前覚えました?」と冗談っぽく飯田に聞く。すると、飯田は少し恥ずかしそうに答えた。

わかってるよ、鈴木聡一郎だろ?

天の邪鬼な男である。

また、こんなこともあった。ファンの方から「決定戦がんばってください!」と言われ、にこやかに「はい、がんばります」と返答するくせに、その方がいなくなると照れくさそうに「いつもがんばってるんだけどな」と頭をかいて笑った。

ファンのみなさんも、そういう天の邪鬼で、おちゃめで、そして麻雀が強い飯田が大好きだったのだろう。

 

2022年5月18日。飯田とお別れして10年が経つ。

次の10年も、飯田が笑って見ていられるような年月にしていくべく、各方面のみなさんに力をお借りしながら、技術の研鑽と麻雀の普及に邁進していきたい。

(2009年の34期には前人未到10度目の最高位を獲得した。左:飯田、右:新津)

 

 

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【編集後記】

飯田正人 永世最高位が亡くなって、早いもので10年が経つ。飯田の人柄なのか、10年前に行われたお別れの会は、様々な方面から多くの方に来場いただき、終始和やかに執り行われた。

その会場内で最も多く発せられた言葉はきっと「語りきれない」だったのではないかと思う。

今回の取材にしてもそうだ。みな、一言目に「色々ありすぎて語り尽くせないんだけど・・・」と言ったし、本来ならもっと多くの方に取材したかったところ、私自身も周り切らなかった。

そこで、亡くなって10年という今年、ぜひ思い思いの飯田正人を語り合っていただきたい。この記事が、そのきっかけになれば幸いである。

また、飯田と直接関わりのなかった世代の方は、ぜひ飯田について色んな人に聞いてみてほしい。きっと自分の中の何かを変えるきっかけになるはずだ。

 

奥様である尚子さんは「亡くなった後もこうやって取り上げてもらって、主人も幸せ者ですね」と言った。

しかし、それはただただ飯田にしてもらったことがあまりに大きかったというだけで、その裏返しでしかないのだ。だから、今一度言いたい。

飯田さん、麻雀に出会ってくれて、ぼくらに出会ってくれて、本当にありがとうございました。

(写真:尚子さんの取材時に近藤が渡した自著)

また、師走の慌ただしい時期に取材など快く協力していただいたみなさまには心より感謝いたします。ありがとうございました。

 

(※敬称略。所属団体については時の経過とともに異動があるため、当記事内では多く割愛しております。資料提供:飯田尚子、福地誠)

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