コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.27】浅井裕介 ~10年間下位リーグに沈み続けた男はどうやってA1リーガーになったのか(前編:浮上編)~

(インタビュー・執筆:小山直樹

 

私にとって、浅井裕介との最も古い記憶は2011年。

共に王位戦準決勝に出場し、揃って負けた時。私が最高位戦入会5年目、浅井が4年目であった。

その準決勝、5人通過で浅井は最終戦大きなトップという条件を満たしながらも別卓の選手に負け6位で敗退。3,100点差の次点だった。

終了後、決勝に残った宮崎和樹(日本プロ麻雀協会)と武中真(日本プロ麻雀協会、当時は最高位戦)との食事に呼んでもらった。浅井とはリーグ戦会場等で会ったり話したりしたこともあったが、麻雀の話も含めみっちりと語り合ったのはその場が初めてだったように思う。

その日、私は四暗刻をツモりながらも箸にも棒にも掛からぬ12位で敗退という結果だったが、初めて進出した準決勝で負けたことを悔やんだ。その席での浅井は微差の敗退に酷く荒れており、「お前より俺の方が100倍悔しいんだよ!!!」と私に向かって吐いた言葉を今でも覚えている(笑)。

 

あれから10年が経った今年、私はA2リーグという舞台で再び浅井と共に戦うこととなる。

最終節、昇級のかかった大一番。ABEMAでも生放送された対局は、多くのファンの注目を集めた。

1回戦開始前、わずか30ポイント差の昇級ボーダーに3人がひしめき合う混戦。

(最終節開始前ポイント)

過去類を見ないほどの死闘を経て、浅井は見事にA1リーグへの昇級を果たした。そんな新A1リーガーの軌跡を追った。

浅井 裕介(あさい ゆうすけ)

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A1への昇級は2節目が終わったときにはもう意識してた

まずはなんといっても今期のA2リーグについて聞かねばなるまい。A2リーグ(4半荘×全12節で3位までがA1リーグに昇級)の最終節を迎え、昇級を争う河野(河野直也)と直接対決となった浅井。

この状況をどのように捉えていたのだろうか。

平たく言ったら「最悪」だよね。あんなに俺が一番ポイント持ってたのに、あの中(ポイント上位だった設楽・品川・浅井・河野の4名)で一番不利になったのは俺だから。

(5節終了時ポイント。浅井はここから常時400ポイントをキープした)

しかも卓組も最悪でさ。品川(品川直)はポイント持ってない篠原さん(篠原健治)とかと同卓だったし、ノーマークで打てるだろうなって。それに対して俺の方は昇級点(4位で2点5位で1点獲得でき、連続した複数年で3点獲得するとA1リーグ昇級となる)が見える坂井くん(坂井秀隆)と残留ボーダーの石﨑さん(石﨑光雄)という必死に打ってくる人たちが同卓だったから。

とはいえ別卓の品川とは30ポイントくらい離れてたから、50勝ったら最悪直也に捲られても大体いけるかなと思ってた。だから絶望してたわけではない。

ひっくるめて言うとなるようにしかならんと思ってたから、楽しみだったし苦しくて早く終わらないかなとも思ってた。

今期、浅井は序盤から昇級ポジションをひた走っていたが、こういう状況ではいつぐらいから昇級を意識しているものなのだろうか。

2節目が終わった時にもう200ポイントくらい持ってて。

意識した、という意味ではその時点で昇級は意識してた。でも「確信」に至ったのは47回戦(最終節の3回戦目)が終わった時だね。

5節目終了時ぐらいからずっと400ポイントぐらい持ってたけど、全然安心はしてなかった。A2でも結構実力差があったと俺は思ってて、その時点で負けてるのが地力のある人たちだったから。ポイント分布的に縦長の展開になるだろうなと思ってたけど、あの時点では縦長具合が悪い感じだなと思ってたんだよね。

それは、そもそもボーダーが上がるだろうという意識があったということなのだろうか。

そう。さすがに最終節のあのボーダーの高さは想定外だったけどね。300台後半の戦いになるだろうなとはずっと思ってた。だから本当は600台まで伸ばしておきたかったんだよね。そこまでいったら周りから逃がされるでしょ、って。途中何回かあった600チャンスをモノにできなかったせいでキツイ争いに巻き込まれちゃったなあ。しょうがないんだけど、決めそこなったっていう自覚がちょっとあったから嫌だった。

こうして、河野との激闘を制し、見事A1リーグへの切符を手にした浅井裕介。麻雀プロになって14年目。もう若手と呼ばれることも少なくなってきた。

浅井は麻雀とどのように出会い、どのように付き合ってきたのだろうか。

 

初めてアガった手はなんと〇〇

浅井が麻雀を覚えたきっかけは、カードゲームだった。

中学1年くらいの頃、マジック・ザ・ギャザリングっていうカードゲームにハマってて、カードゲームショップに通ってた。で、そこの店長が麻雀したいけどメンツが足りないっていうので誘われて始めた。でも、いざ始めたのに役を七対子と国士しか教えてくれなくってさ。まあそんなの負けるじゃない。

当然である。しかし、次に浅井が放った言葉は耳を疑うものだった。

だから、麻雀で初めてアガった役は国士だよ。

そんな人間がいるとは。驚きを隠せない筆者に対し、浅井がすぐさま口を開く。

だってそれしか役知らないし、アガったらすごいって言われたら狙うじゃん!3半荘目くらいでアガれたよ。

でもこいつら俺の知らない役でめっちゃアガってるし、なんなんだよ!って思ってた。元が負けず嫌いだから悔しくて、もうそこから一気にのめりこんじゃった。

父方の爺ちゃんが将棋好きで、母方の爺ちゃんが囲碁好きで、小学校低学年の頃から囲碁とか将棋とかずっとやってたんだよね。だからボードゲームとかカードゲームとか全般がすごく好きだった。その延長に麻雀があったのかもしれない。

 

野球とアイスホッケーで先輩後輩関係の難しさと大事さを知る

麻雀を中学1年で覚えた浅井。そもそもどんな中学・高校生活だったのだろうか。

中学受験で法政に入って、そのまま高・大と法政。大学受験をどうしてもしたくなかったから、付属のところだけ中学で受験しようと思って、法政に通うことにした。

中学は野球部と囲碁将棋部をやってたんだけど、高校に入ったら野球部は練習もきついし実績も南関東大会優勝とかしてて、俺なんかベンチで試合は全然出れなかったのね。中学の頃すごかったヤツもレギュラー取れないくらいだし。

で、もっと楽しくやりたいなあと思って軟式野球部に入ったんだけど、そこで理不尽な後輩イビリにちょっと先輩にキレちゃって、合宿でバット持って先輩を追っかけまわしちゃった(笑)。それで色々気まずくなって辞めちゃったんだよね。

なるほど、浅井のキャッチフレーズ『日本一キレやすいプロ雀士』の片鱗がある。

やることなくなってどうしようかなって思ってたら、秋口くらいにアイスホッケー部の先生にアイスホッケーやらないかってスカウトされた。アイスホッケーを始めたらすごい楽しかったんだよね。

(写真中央が浅井)

野球って中学から始めたから、小学校とかもっと前からやってた奴らには全然敵わなかったけど、アイスホッケーって高校から始める人が多かったから、周りと一緒に上手くなっていく感じが楽しかった。

アイスホッケーって出場校が少ないから、インターハイ予選にクラブチームとかも出たりしてて、当然めっちゃ強いんだけど神宮のクラブチームといい勝負とかできたりして楽しかったなあ。

ほとんど部活のためだけに学校に行って、それ以外の時間はずっと麻雀してたね。高校時代はほんとにアイスホッケーと麻雀しかしてなかったから、アイスホッケーが無くなる高3の冬にはいよいよ麻雀しかしなくなっちゃった。

浅井という人物は礼儀正しく、先輩には丁寧で後輩の面倒見も良い。野球にアイスホッケーという、学生時代の体育会系部活動がそこに大きく影響しているのだろう。

そして、大学入学。浅井はここから麻雀の中で人生を送り始める。

 

大学入学翌日から麻雀店で働き始める

大学に入って、入学式の次の日に大学の近くの雀荘に面接に行って、働き始めたんだよね。それが八王子の『京王』ってお店。

大学入学翌日に雀荘での勤務を開始するとはなかなかに意欲的だが、麻雀の成績はどうだったのだろうか。

負け続けた。で、当時の店長にめちゃくちゃ煽られてた。「また負けてキレてんの?」みたいな感じで。でも1年くらい耐えて働き続けたら、成績が劇的に良くなった。トップ率32%くらいで平均着順2.3台前半くらいとか。

どのようにして成績を向上させていったのだろうか。

ひたすら見て打つだけ。働いた後に徹夜でセットとかして、そのまま働いたりとか48時間ぶっ通しで麻雀したりしてた。月に3~400半荘くらい打ってたかな。当時ってオンライン麻雀とか全然知らなかったから、ずーっとリアルで牌を握ってた。

それで1年くらい経って勝てるようになってきたころ、同じ雀荘に木村ってやつが入ってきたのね。最初はわかんなかったんだけど、一緒に働いてみたら俺が中学・高校の頃から麻雀の天敵と認識してた木村尚嵩(日本プロ麻雀協会)だった。「またお前か!」って。

中学高校の頃の俺ってバカ弱かったからわからなかったんだけど、大学生になってちょっと勝てるようになってきてから木村に会ったら、やっぱりめちゃくちゃ強くて。こいつはこんなに強かったんだって衝撃を受けた。

他にも周りに勝ってる強い人たちが何人かいて、みんなで最高位戦を受けてみようかって話になった。あ、じゃあ俺も受けてみようかなって受験してみたら、俺以外全員受けてなかったんだよね。

一緒に受験して知人と同期になるはずだったのが一転、最高位戦にまるで縁がない状態で入会したという。

でも、そんな同期には個性的な人が多くて、今残ってるのが中嶋和正、中村英樹、征木さん(征木太志)とか。リーグ戦は出てないけど仲山君(仲山真史)もだね。もう辞めちゃった人も多いけど、橋本とか志村とか強くて良いやつも多くて、同期はみんなめっちゃ仲良かった。

入会後、浅井はリーグ戦でなかなか思うように結果が残せない。入会後すぐのC2リーグでは下位に沈んで再試験。C1に上がったり、B2に上がり損ねたり、C2に下がったりで停滞していく。

中々勝てないから、ちょっと麻雀変えようかなって思って。同期がとっても鳴き屋さんじゃない?中嶋とか中村とか。その辺と麻雀の話したら「お前には仕掛けが足りない」ってステレオで言われて、鳴き始めたらめちゃくちゃ負けてさ。

負け始めたらもう良くわからなくなっちゃって。中嶋・中村の二人はその頃には遥か彼方上のリーグにいたね。

自分のベースは一応あってさ、それまでそれなりに勝ってたから自分のことをすごく弱いとまでは思っていなかったけど、ここから全然勝てない時期が続いていった。

浅井は20から21歳になる時に入会し、30歳の誕生日をC3で迎える。つまり、実に10年以上C~Dリーグで戦っていたことになる。そのような低迷期をどのような思いでどのように過ごし、どのように這い上がっていったのだろうか。

 

幻の第0期新人王

リーグ戦の結果がなかなか出なかったから、みんな俺のことをずっと負けてた人って思ってるんだけど、最初はちょっと勝ってたんだよね。

3年目に野口賞(野口恭一郎賞:若手選手の登竜門という位置づけのタイトル戦で、今のモンド新人戦に近いイメージ)の最高位戦内選抜大会で優勝して野口賞に出た。

(最高位戦内の選抜大会優勝決定の瞬間)

当時の野口賞は、各団体から推薦された選手計16人が優勝を目指した。最高位戦では内部大会優勝者の出場枠が1枠だけ設けられており、浅井はそれに優勝して本選に出場する。

翌年からその内部大会が『新人王』っていう最高位戦のタイトルになった。だから俺は新人王獲り損ねてるんだよね。俺も新人王でええやーん!って思ってた(笑)。

最高位戦における幻の第0期新人王というのが浅井自身初の獲得タイトルだったのかもしれない。

その年一緒に野口賞に最高位戦から出たのが敬輔(齋藤敬輔)と一馬(石井一馬)で、この二人とはその時に仲良くなった。ちなみに、その時の野口賞を勝ったのは金さん(金太賢:日本プロ麻雀協会)。

この時、浅井は金と戦い敗れたわけだが、この6年後に再び最強戦の舞台で再会し戦うこととなる。それについては後述する。

野口賞だけじゃなくて、王位戦も準決勝まで残って、翌年マスターズの決勝にも出た。マスターズ決勝が初のタイトル戦決勝。5年目くらいかな。

初めての決勝はやはり緊張するものなのだろうか。

緊張に気づかなかったね。会場の最寄り駅を降りた時に気づいたんだけど、ベルトしてなかった。仕方ないからそのままベルトなしで行ったよ。

第21期マスターズの観戦記より。この下はベルトなし)

決勝は結局一馬が優勝して、俺は全然ダメな最下位で終わった。

で、打ち上げの2次会か3次会かで、一馬と俺とで『びーたん』(曽木達志が店長を務める吉祥寺のバー)に行ったのよ。

そしたら仕事終わった聖誠(佐藤聖誠)がやってきて、俺と一馬との間に割って座って。完全に俺に背を向けながら、一馬におめでとうとか色々喋ってたの。

で、小一時間くらい経った頃かな。聖誠がこっちを振り返って、「ところで君、誰?」って。ちなみに総会とかで挨拶とかはしたことあるよ、もちろん。

浅井「最高位戦の浅井です、よろしくお願いします」

佐藤「今日はなんでいるの?」

浅井「僕もマスターズ決勝残ってたんですよ、負けちゃいましたけどね」

佐藤「そうなんだ、お疲れ様。ところで君何リーグ?」

浅井「C1から落ちてC2になりました」

佐藤「そうなんだ、じゃあもうチャンス無いね」

って言われて。これが聖誠とまともに会話した初めての記憶ですよ。ビリッビリに尖ってた頃の聖誠だね(笑)。

麻雀プロという生き物は、若手時代には尖っていないと気が済まないのだろうか。様々な選手のこういう尖り話を聞く度に頬が緩む。ただ、佐藤の言葉ももっともだったと浅井は言う。

当時って俺より若いヤツなんてほとんどいなかったのね。直也(河野直也)くらいかな。直也がリーグ上がっていく中、逆に俺はその頃リーグ戦で負け続けてたからね。「ただリーグ戦で負けてるやつ」って思われてても当然だよね。

ここでリーグ戦の話に戻ってきた。周囲からは「浅井は強い」という評価があったにも関わらず、一時はD1リーグまで降級したりと大低迷を続けた浅井。その時の心境はどのようなものだったのだろうか。

ツイてないとは思ってた。それは当然。でも、自分で勝ち方もわからなくなってたし、自分がなぜ負けたのかとか、負けの原因にきちんと向き合ってなかったように思う。

では、周囲からDリーグに落ちたことを揶揄して「浅井D介」等と煽られることもあったが、それについてはどうだろう。

それについては無かな。あんまり知らない人に言われるのは嫌だったけど、それを言って来た人たちはみんな愛を持って俺に頑張れよって言ってくれてたんだとわかったしね。

33期前期(2008年)に当時一番下のC2リーグに入って、39期後期(2014年)にD1に落ちた。27,8歳の頃かな。まずいと思ったし、まだ今の年齢なら人生の転機としては遅くないとも思った。

 

麻雀プロを辞めることも含め、人生を見つめ直した

浅井はこの頃、仕事として続けてきたルールスターズを辞めている。ルールスターズは10年以上前から「麻雀オフ会」を企画・運営しており、日本プロ麻雀協会の宮崎和樹をはじめ多くのプロがスタッフとして参加もしている。浅井もそこでイベントの企画運営をしながら、ファンとの交流や麻雀の普及に努め、生計を立てていた。

29歳まで7,8年続けてきてたんだけど、30歳を目前にして悩んだんだよね。責任者をやらせてもらってたんだけど、俺の能力不足もあってあんまり稼げてなかった。この先結婚とか人生を考えた時にどうしようかなって考えて、一旦辞めることにした。

麻雀プロそのものも辞めようかなって考えたりもしたね。でもさ、最高位戦の事をろくに知らずに入ったけど、この頃にはもう最高位戦のことが大好きでさ。

強いって言ってくれてる人もいたから、負けたまま辞めてその人達の期待を裏切るのも嫌だったし、純粋に上位リーガーの人たちとやってみたい、このまま辞めるのは悔しい。

で、もう一回だけ本気でやってみてダメだったら諦めようと思った。

実は浅井は5年生で大学を中退している。そのタイミングで、麻雀一本で生きていくことを1度決断した経緯がある。

元々大学には行きたくないって言ってたんだけど、大学だけはとりあえず行ってくれって親に言われて。大学行ったら遊んでもいいからとりあえず大学は行ってくれと。無事に大学に進学はできたけど、単位が足りずに卒業できなかったのは誤算だった。

大学を辞めて麻雀で生きていくと決めた時も、もちろん最初は親に反対されたけど、止めても止まらないって思われたのかもね。なし崩しになっちゃった。申し訳ない気持ちはあるなあ。でも最近はこの間のA2最終節も見てくれたり、応援はしてくれてると思う。

そんな決断をした浅井が、今最高位戦を辞めることも含めて人生を見つめ直している。確かに、5年10年と麻雀プロを続けていて、麻雀プロを辞めようと思ったことの無い人は少ないはずだ。誰しもが夢を抱いてこの世界に入ってくる。有名になりたい、A1リーグに上がりたい、タイトルを獲りたい、Mリーガーになりたい。

しかし夢を叶え、成功を掴むことができるのはほんの一握りである。日々麻雀の事だけを考えているわけにいかない事情や時期もあるだろう。生計だって立てなければならない。夢破れ去って行った者も数多い。

浅井とて、それは同じだった。

 

「君何リーグ?」の出会いを果たした佐藤聖誠に頼んでリーグ戦をすべて見てもらった

麻雀プロを辞めようかと悩んでいたけど、もう一度だけ本気でぶつかってみようと思って。

当時一番強いと思ってた聖誠にお願いして、リーグ戦を全部見に来てもらうことになった。少ないけど謝礼も払って、どこがダメなのか教えてくださいって。

それでスタートしたD1リーグで、1節目に120ポイント負けたんだけど、聖誠にすげえ色々言われたのね。

「浅井の事は結構できると思ってたのに、バランスがめちゃくちゃになってる」って。牌理とかじゃなくて、「負けすぎて手を狭くしすぎてる。そんなんじゃアガれないでしょ」とか。

確かに、狭く受けるくせに、押しちゃいけないところで押して痛い目に合ってた。

「手組と押し引きがめちゃくちゃになってるよ」

聖誠が忙しい中、少ないお金で俺のために見てくれて、指摘してくれた。それで目が覚めたような気がして。あ、俺気づかないうちにダメなことしてたんだなって。一方で、指摘のほとんどがバランスや手組みだったのはちょっと救われた。裏を返せば牌理はできてるんだなって思えたからね。

それで残りの4節は意識して修正してやってたら、聖誠にはあんまりダメ出しされなくなった。知らず知らずのうちにバランスが崩れてたのって、鳴きを取り入れたこともあるし、負け続けて結果が出ないこととか、いろんな要因があったと思う。でも聖誠に言われて「こうしたらいい」っていう指針が出来てからは、迷うことが少なくなった。

本気でリーグ戦に臨むにあたり、浅井が選んだのが「自分が最も強いと思う人に自分の麻雀をチェックしてもらう」という方法だったのは興味深い。そしてそれを快く受け入れ、5節全てを見てしっかりとアドバイスをした佐藤もまた後輩思いの素晴らしい人間である。

佐藤の教えによってここから浅井の快進撃開始・・・とはならなかった。

D1は1回で抜けられた(人数調整での繰り上げ昇級)んだけど、C3をそこから3回残留してる。なかなかすぐに結果は出なかったね。

でも、そこでの結果には結構手ごたえを感じてて、降級しそうなところから最後の最後に条件を満たして残留とかを続けて凌いで、41期後期(2016年)のC3リーグで8年ぶりに(正規)昇級できた。

そのタイミングでちょうど30歳。7年付き合った彼女にもフラれて、これからの人生を考えた時に、それまで以上に麻雀に対して真剣に、真摯に向き合うようになった。

21歳から30歳まで、やってきた事は麻雀だけだったから、大好きな麻雀でこれからも生きていくって決心した。

 

麻雀の勉強を中心に据え、仕事を選択した

30歳になり決意を新たにした浅井は、これまで以上に麻雀に没頭していく。

麻雀の勉強量が格段に増えた。時間を作れるような働き方をしようと思って、ルースタを辞めてから雀荘勤務をしていたんだけど、1か月のうち15日くらい働いて残った時間を全部麻雀の勉強に充ててたね。

勝ち始めたくらいから、参加できる勉強会が増えたのが良かった。強い人に一緒にやろうよって声をかけてもらえることがそれまでに比べて格段に多くなったんだよね。

それまで大志さん(坂本大志)とかとセットはしてたんだけど、俺の変化を大志さんとか先輩達が気づいてくれたのかもしれないし、だったとしたらうれしいな。

あともう一つ大きいのが、俺が久しぶりに自分に自信が持てるようになったこと。萎縮してたわけじゃないんだけど、自分から積極的に参加したい私設リーグとか勉強会に声をかけて入れてもらったりできるようになった。Sリーグとかもこの時期からだよね。

(※Sリーグ:坂本大志主催の私設リーグ。毎年参加者は変わる。現在は忍田幸夫(麻将連合)、松ヶ瀬隆弥(RMU)、田内翼(日本プロ麻雀協会)、下石戟(日本プロ麻雀協会)等他団体の上位リーガーも参加している)

先輩との勉強会ってさ、自分から与えられるものが少ないと思ってたから結構尻込みしちゃってたんだよね。今となっては後輩とやる勉強会でも得られるものはあるってわかってるけど、当時は俺だけ得するような上の人たちとの勉強会を、こっちからやってくれって言えなかった。

でも、C2に昇級してからB2(現在のB1)くらいまではそんなに雀力は変わってない気がするんだよね。

自信を取り戻したことにより、自身の環境を変え、それがまた結果を生むという好循環を生み出していくことで、浅井は長い低迷期から浮上し、地上へと顔を見せた。

しかし、浅井に言わせれば、B1リーグに至るまで実力はあまり変わらなかったという。浅井の麻雀が大きく変わったのは2019年。この年、A2リーグに上がった浅井のさらなる進化が始まり、今の麻雀が形作られていく。後編:登頂編へ続く。

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