コラム・観戦記

採譜者フミさんの『迷宮を歩く』 ⑥

また例によって、寄り道から始めよう。

 

もう20年近くも前になるだろうか、80年代にアメリカの文壇で活躍したユダヤ人作家「バー ナード・マラムッド」の原作を元にした、ロバート・レッドフォード主演の『ナチュラル』 という映画があった。

アメリカの片田舎から見出された天才野球少年を主人公に、「栄光」と「挫折」、そして「再生」がテーマの静かな心地よいドラマだっ た。

 

草野球から夢を手に入れメジャーでの活躍、そして当然のように待ち受ける落とし穴。もちろんクライマックスには「再生」が待っている。

シーンとしては、復帰戦で、9回裏ツーアウトフルベースの打席に立った彼は、脳裏によぎる数々の思いを振り切るようにフルスイングをし、打球はスタンドを 越えて照明灯に突き刺さる。

まるで夜空に打ち上げ花火のように火花を散らせ、歓声とスタンディングオベーションの中、 ホームに迎えられる。

 

が、小説の方では、ラストシーンが180度違う。渾身の力で振り切ったバットは空を切り、ブーイングとため息の中を、重い足取りでベンチへと戻ることになる。

でも、うなだれて戻る一歩一歩の作者の描写はとても暖かい。

 

手にした結果ひとつで、今までの彼の願いに向けた生き方が、総て無意味になってしまうのだろうか?

 

マラムッドの静かで淡々とした描写には、逆に「この世界に意味のないことなんてあるんだろうか!」という強く激しい主張がやさしさと共にある。

 

 

さて、38期Aリーグも終わり、新井、佐藤、村上の3名が最高位への挑戦権を手にした。

また、残念ながら挑戦権獲得を逃した選手、なんとか残留できた選手たちも、決定戦以降たっぷり取り上げていくつもりだ。

 

そして、Bリーグ陥落が決まった3名もいる。

彼らの今期の成績を見て、ただ×印をつけるだけでいいのだろうか?

より良い結果を求めて努力をするが、最後に待っているのは「運」だ。

 

女性初のAリーガーとなった山口まやも、良く手が入った。

天然で大物手が入り、それをしっかり形作りしていくところは、Aリーグ初参戦で挑戦権を得た新井と同質のモノを感じるが、出た結果は正反対!

 

バタフライ効果というんだっけ、(まぁ歳がバレるが、昔よく耳にした、日本で言うところの「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいなもんかな?)他者のたったひとつの選択が、波状的に広がり、とんでもない現象を導き出してしまうというヤツだ。

このコラムでも第3回目に取り上げた、山口の

 

(ドラ

 

も、 石橋の一発消しの選択ひとつで成就できなかった。

もちろん石橋の逡巡の是非を問うているのではない。

場や手牌と相談して、こういう逡巡が出来るようになっ たのが、Aリーグ入りしたてのころから、現在のタイトルを取れるようになった石橋のいい意味での大きな変化、成長だと思っている。

偉そうなこといってゴメンネ、石橋クン。 )

 

また張も、運営側からこの最高位戦をしっかり支えてくれている。

でもいつか戻ってきて、是非彼の麻雀を見せて欲しい。

精度を高め、マイナス部分を切り捨てていき、良い結果だけを出現させようとする麻雀ばかりでは淋しい。

張もまた、ぼくと同じように麻雀を迷宮ととらえているんではないだろうか。

アリアドネの糸を頼りに迷宮を、出口(結果)を求めてさまよい、それでもミノタウロスに出会ってしまう覚悟が、彼にはしっかりある。

 

土田も、10節では王道の麻雀で100ポイント以上プラス。11節では、

 

   ツモ

 

の四暗刻を見せてくれるなど、彼らしさを発揮して120ポイント上乗せ、残留を確保できたかに思えたのだが・・・

12節で、「迷宮」の王ミノタウロスに出会ってしまう。

残留に向け必死に闘い抜いた水巻に引導を渡されることに・・・

 

土田は僕たちに、麻雀の持つもうひとつの面、忘れてはならないことを教えてくれているように思える。点単位の「+」「-」にこだわらず、一生を通してどう麻雀とかかわっていきたいかを見せてくれているんじゃないだろうか。

 

その土田のなんでもない手牌なのだが、

 

  (は自風。)

 

手番までの短い間に、もし自分だったら、と思いがよぎる。

すると上家の打牌が。まさに気になっていた牌が捨て牌に置かれた。

驚いたことに、土田も一瞬だが、いつもの一定のリズムがよどんだ。

これは13牌なので、何切るではない。この形をどう捉えるか、という問題だ。

ぼくとしては例によって七対子を積極的に拒否したいので、完全安全牌がきたら残して打

そして、もポンだが、にも声をかけるかもしれないと思っていた。ポンなのでは薄くなるのだが、一応10枚が完全に機能する形になる。

 

麻雀のアガリ形は、11+123+123+123+123の順子手と、対子+刻子+順子の複合形、対子傾向の手牌進行は確かにあるが、対子手のアガリ形は七対子しかない。あとは、刻子手(対々、四暗刻など)と国士。

つまり前出の手牌をぼくは混合形の最速、最弱にしてしまう選択だ。

対局後に土田にコメントを求めると確かにには手が止まったとの事。でも彼はこの手を動いた時は刻子手と見るようだ。

同じに手が止まっても、ぼくと土田とでは180度考えが違う。安易な十分形になんの意味があるのか、とぼくに反論してくるんじゃないかな?

 

正反対の見方、考え方をする者が同じ選択肢を考慮に入れ、同じ流派にくくられる者が、分岐点で異なる選択をしたり。そしてそれぞれに譲れない正当な理由・姿勢があったりする。

全員が同じ方法論で、同じ選択しかしないようになったら、たぶんその時がぼくが麻雀から離れる時だろう。

 


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