(インタビュー・執筆:伊藤奏子)
人生は選択の連続だ。どこに行くか、誰と会うか、何を始めるか、何を辞めるか。過去の選択の積み重ねの先に今がある。もしもその選択が一つ違っていれば、私たちは誰しもが今とは違う人生を歩んでいたかもしれない。
鷲見智和(わしみ ともかず)
『麻雀プロ』の道を選んだ者の一人、鷲見智和。2014年に北海道本部が発足してから現在に至るまでの9年間、北海道本部長として牽引してきた。
彼のイメージを周囲に聞いてみた。
事務局長として鷲見と二人三脚で歩んできた山家輝生は
「とにかく聞く力がすごい」と言う。
プロ入り前から競技麻雀の世界で共に切磋琢磨してきた伊藤聖一は
「人としての器がでかい」と言い、
地方統括として鷲見と深く関わることの多い坂本大志は
「素晴らしい人格者」と言う。
くすぐったいくらいに全員褒めまくりだ。人間性が素晴らしく、さらにイケメンときている。しかし、そんな彼だっていくつもの選択の前に迷い苦しみ、自分を見失うこともあっただろう。自分自身のことを多くは語らない鷲見。だから、彼の過去を知る者は少ない。プロ入りと同時に北海道本部長の重責を担った鷲見は、どんな選択を重ねて歩んできたのか。ぜひ彼のストーリーを読んでいただきたい。
負けず嫌いだった幼少期
1979年1月24日。札幌から約300㎞ほど離れた北見市で鷲見智和は誕生した。長男?と聞かれることがよくあるそうだが、三兄弟の末っ子だそうだ。
(父の膝に乗る鷲見)
2つ上と3つ上の兄貴がいて、子どもの頃はケンカばかりで生傷の絶えない毎日だった。とにかく負けず嫌いで。百人一首や将棋をやると、最初は兄貴たちにかなわなくてめっちゃ泣いてた。でも、ばーちゃんと秘密の特訓をしたりして。負けては泣いて、負けては泣いて、でも必ず勝つまでやる。ぼくが勝ちだすと、兄貴たちがやらなくなるんだよね。最後は将棋も一緒にやってくれなくなった。いつも兄貴たちの背中を追いかけて過ごしてたなぁ。そういう勝つまで突き詰めるっていうのが、今、麻雀に繋がってる気はする。
3年間キャプテンを務めた中学時代
中1の時のクラス担任がバレーの強い中学から転勤してきた先生で、当時学校になかったバレー部を作ることになったんだよね。部員は全員中学1年生。その時に、なぜか先生から声をかけられてキャプテンをやることに。ぼくは頼まれると断れないタイプなんで…その当時から(笑)。
(優勝旗を持つ鷲見少年)
試合で対戦する相手はどこも3年生で、こっちは1年生。そりゃ負けまくるよね。でも、3年の時には地区大会も勝って全道大会にも出るようになった。結局3年間キャプテンをやった。今でも先生がぼくに声をかけた理由はわからない。ただ、1回やったら簡単にやめたくない。任されたらその役割を頑張って演じるみたいなところはこの当時からあったかもしれない。練習がすごく厳しいから心が折れる子が続出するんだけど、そういう人をうまくなだめたりとか…あ、今もやってることは変わらないかもしれない(笑)。当時はすごい嫌だったしすごいしんどかったけど、結局3年間ちゃんとやり切ったのは自信になったかな。
幼少期の頃から培われた負けず嫌いの精神を中学でも存分に発揮した鷲見。勝つという目標に到達しようする根気強さがあり、さらにキャプテンというチームのまとめ役を10代前半で3年間やり続けたことは、彼のその後の人生に大きく影響しているように思える。
親友・岩﨑真との運命の出会い
鷲見は高校を卒業すると、札幌にある経済系の専門学校に進む。そこで出会ったのが、同じ北海道本部の仲間でもあり、現在、麻雀店『エムフリーク』を共同経営している岩﨑真だ。鷲見との出会いについて岩﨑に聞いてみた。
(写真左がエムフリークを共同経営する岩﨑)
同じクラスだってことはわかってたけど、喋ったことはなくて。ある日、昼休みにコンビニに行こうと信号待ちしてたんだよね。そしたら突然ぼくの横にきてトントンってされて「友達になってくれない?」って。「え?あ、はい」みたいな(笑)。今思うとすごい不思議。クラスには他にもたくさん人はいたのに、しかもワッシーは人見りのはずなのに、ストレートにそう言ってきて。
少し意外かもしれないが、鷲見には人見知りの一面がある。本人に自分の人間性を聞いた時もコミュニケーションが苦手と言っていた。そんな鷲見が岩﨑に声をかけたのは、まるでソウルメイトのように何かに導かれた運命だったのか。そこから岩﨑と一緒に過ごすようになり、麻雀と出会うこととなる。
クラスメイトの一人が学校近くの寮に住んでて、その子が麻雀が好きで。マコトもぼくもルールは知らずに寮に呼ばれて行って夜な夜な手積みで麻雀してた。その友達がいなかったら、全く麻雀はやってなかったと思う。その頃は国士無双とチートイツしか知らなかったんだけど、そこからハマって学校も行かずに麻雀するようになった。数か月経った頃にマコトが「一人で麻雀を打てるところがあるから今度行こうよ」と。何かする時はいつもマコト発信なんだよね。ぼくは自分からは動かないから。
雀荘に行くようになったらさらにハマっちゃって。もう半年くらい学校に行かなくなっちゃって。サウナに泊まって、雀荘に行って、友達とセットしてっていうのを繰り返してたから、兄貴と住んでた家に帰らなくなることも多かった。
そんなある日、マコトが突然家にきたんだよね。お互いに住んでる家は市内でもかなり遠かったんだけど。で、言われた言葉が、「学校においで」だった。親もぼくのことは既に諦めてたけど、なんとなく説得されてまた学校に行くようになった。
このエピソードを岩﨑にも尋ねてみた。
専門学校は担任制で、すごい熱血の先生がいたんだよね。その先生が、ワッシーが全然学校に来ないのを見かねて雀荘に乗り込んでさ。学校来いよと。お店からしたら迷惑な話だよね。確か先生はその店の店長とケンカしたはず。ぼくからも説得したけど、先生も乗り込んで、それで学校に来るようになったんだよね。
しっかり者に見える鷲見からは想像もつかないエピソードだ。
あの時マコトが説得してくれなかったらきっと卒業できてなかったし、今頃何をやってるかわからなかった。その時の恩っていうのかな。それは今でも忘れてない。
こうして鷲見は学校に再び通い出し、補習の嵐を乗り越えなんとか単位を取得する。卒業後、鷲見は地元北見の大学に3年から編入をすることになり、岩﨑は札幌で就職する道を選ぶこととなった。別の道に進む二人だったが、麻雀店を一緒にやることはいつから話していたのだろうか。岩﨑に聞いてみた。
専門学校の卒業間際かな、将来的には一緒に商売をしよう。雀荘をやろうかっていう話を二人でしてた。よくある友達同士の会話なんだけど、ぼくは結構本気にしてたし、たぶんワッシーもその会話は本気だったんだよね。共同経営するってだいたいうまくいかないことが多いって聞いてたし、他の友達と一緒に商売しようとは思わなかったけど、ワッシーとだったら絶対うまくいくだろうなって漠然と思ってた。その頃からワッシーのことは尊敬してたから。面倒見はいいし、責任感は強いし、断れないで何でもやっちゃう部分はあるんだけど、一番は人が良いから。だから彼とだったらうまくいくって思った。
山家に鷲見についての印象を聞いた際、彼はこんな風に言っていた。
エムフリークは二人のオーナーがいるよね。この二人オーナーって、まず麻雀店はうまくいかないというのが定説なんだけど、このレアケースがうまくいってるのが、鷲見さんと一緒にやってきてよくわかる。とにかく衝突がないんだよね。聞く力やいろんな人の声を拾う力がすごい。
20代前半に鷲見と岩﨑が語り合った夢。若い時代に共に思い描く夢は、距離が離れたり環境が変わればたいてい泡のように消えてしまう。しかし、親友としてお互いに尊敬の念を抱いていた二人はその想いが消えることなく約6年後に夢が現実となる。
全財産を突っ込んで、二人の夢を実現
大学に編入した鷲見は、そこでも麻雀中心の生活を送っていく。
大学4年の頃に雀荘を開きたいっていう人がいて、その人にバイトしないかって声をかけてもらった。その新店のオープンメンバーがオーナーとぼくと年上の二人。店名は、ぼくが考えた『Mフリーク』が採用された。それからはずっとメンバー業をやっていて、学校にはあまり行ってなかった。卒業はなんとかできたけどね。お給料がすごく良くてさ、学生なのに手取りで26万くらいもらってた。そうなると就職なんてできないよね(笑)。
でも1年くらい経つと、そううまくいかなくなっちゃって。お客さんが離れていったり、お店の支払いもできなくなったりして。無給で働いていた時期もかなりあったかな。そのうち、最初にいた二人がやめて、オーナーもいなくなっちゃって。最終的にぼく一人になった。でも、始めたことを簡単にやめたくはなかった。だから色んな部分を改善して必死に立て直した。ただ、ずっと北見でやるつもりはなく、マコトと札幌で雀荘を開きたいって思ってたから、北見のお店がある程度形になった頃に後輩にお店を引き渡したんだよね。それまでにマコトもぼくも色々働きながらお金を貯めたり、メンバー業もやって経験を積んできた。そして27歳に札幌で雀荘を開いたんだよね。二人の全財産を突っ込んで。
責任感というのか、根性というのか。鷲見には自ら始めたことを簡単に諦めたくないという思いが根強くあるようだ。札幌で始めたお店は、鷲見が元々北見で名付けたMフリーク(現在は移転し、名称はエムフリーク)をそのまま使い、岩﨑とともに3卓のお店でスタートさせた。3人目のスタッフとなるのが、後に北海道本部発足メンバーでもある小澤孝紀だ。
北見を出て行く時に突然孝紀から電話がきた。「ぼくも札幌に連れてってください」と。お金はないし、マコトと二人でなんとかやっていこうと思ってたから、軌道に乗ったらねって伝えたんだよね。でも1か月半くらい二人で休む暇もなく働いてたら、さすがにこのままだと死んじゃうと思って、孝紀を呼んだ。彼もお金はなかったからうちに住みなって言って一緒に生活してたよ。
筆者は縁あってこの頃に鷲見と知り合った。小澤と共同生活していた小さなアパートにも遊びに行ったことがあるが、寝て食べて、最低限の生活ができる小さな部屋だったのを覚えている。こうして鷲見と岩﨑の元には、一人、また一人とスタッフが増えていった。お店は卓数も増え、順調に進んでいた。そんな頃、鷲見はあるお客さんから北海道最強位戦に出てみないかと誘われる。
北海道最強位戦は、当時札幌を拠点に活動していた土田浩翔主宰のプロアマ混合リーグ戦。1986年に創設され、北海道の各麻雀店にいる猛者たちが多数出場していた。そこに鷲見も参戦が決まり、山家輝生を始め、北海道本部発足メンバーとなる伊藤聖一や木村元一らと出会うこととなる。何より土田浩翔との出会いが、最高位戦北海道本部発足へと大きく繋がっていく。
北海道最強位戦の仲間や聖一さんと出会えた事は僕の財産だと思っていて、プレイヤーとして一から大事な事を沢山教わった。そして聖一さんのように、麻雀で誰かを魅了出来るような打ち手になりたいとこの頃思うようになったね。
2014年 北海道本部発足
あまり知られてはいないが、土田は最高位戦北海道本部の顧問である。北海道本部発足の話が上がり、筆者も含め、北海道最強位戦に出ていた面々も土田から直接プロ試験に誘われた。鷲見が34歳の頃である。発足前、代表の新津潔や当時最高位戦に所属していた張敏賢氏などが説明のために北海道に来たことがある。その話を全く知らなかった鷲見は、たまたま知人に連れられて会合のようなものに同席したそうだ。
その頃は張さんのことも全く知らなくて…初めて最高位戦っていうのが北海道にできることを聞いて色々話した。後日土田さんから連絡をもらって、鷲見・山家で北海道本部をまとめていってもらえないかと頼まれた。その時は役割なんてもちろん何も決まっていなかったけど。でも、それってもう希望しかないよね。そういうことに携われることにやりがいを感じた。
その後東京に呼ばれて山家さんと一緒に行ったんだよね。その場に、新津代表や張さん、誠一さん(近藤誠一)、土田さんが来て話をさせてもらった。めちゃくちゃ狭い居酒屋で、誠一さんとかもぎゅうぎゅうになって(笑)。北海道だったらどういう風にやったらいいんじゃないかとか色んな話をしてもらった。その帰り道が誠一さんと一緒の駅だったんだけど、誠一さんがぼくのホテルまで送ってくれてさ。こんなに有名な人なのに、こんな風に接してくれるんだなって。そういう誠実さにすごく感銘を受けた。そして、張さんも本当に素晴らしい人で、話を聞いてやりがいありそうだなって思った。東京から帰る飛行機の中では、もう、絶対成功させたいって気持ちになってた。
ただ、日程調整や選手の募集に関しては色々難しくて。最高位戦の主張と当時の北海道の環境ではすり合わせが難しかった。当時は今ほどプロが活況ではなかったから、プロ試験の募集をして簡単に10人、20人集まるっていう時代じゃなかった。特に北海道では「プロなんて」って思われてた時代だったから。「プロ?オレらの方が強いでしょ」って。そんな中での立ち上げだったから、「あいつら何やってるの?」みたいな目線はかなりあった。でも、そこは張さんや土田さんがこちらの話を聞いてくれたり、北海道最強位戦に参加してた人たちの横の繋がりで、あれだけ立ち上げから人が集まったんじゃないかなって思う。
こうして2014年、最高位戦第39期に北海道本部が発足した。既に最高位戦に所属していた山家や、他団体に所属していたことのある推薦選手、そしてプロ試験に合格した選手と合わせて27名でのスタートとなった。
北海道は他の地方支部本部とは異なり独立リーグとなっている。簡単に言うと、最高位までの道が繋がっていなく、北海道内部だけで完結するリーグ戦だ。
創設メンバー27名全員がC2リーグでのスタート。毎期上位リーグができ、ピラミッド方式となる。Aリーグができたのは第43期。そして、その上位4名で戦う北海道王者決定戦が開催されたのは翌年の第44期。ここまでに発足から5年の月日がかかった。
坂本大志も涙した第1回北海道王者決定戦優勝
この第1回北海道王者決定戦で優勝に輝いたのが、他でもない鷲見智和だった。放送のエンディングで鷲見の目は潤んでいた。そして、鷲見以上に目に涙を浮かべていたのは、解説でその場にいた坂本大志。坂本は張さんが最高位戦を退会した後、地方との懸け橋で最も尽力した人物である。坂本にその時の心情を聞いた。
(画像引用:スリーアローズコミュニケーションズ)
北海道リーグというものを作っていく中で、完結する形ができた初めての時で、ようやくここまで来たっていう達成感というのかな。もちろん対局も素晴らしくて、しかも優勝したのがずっと北海道本部を背負ってきた鷲見さん。運営だけじゃなく選手としてもみんなを引っ張ってきた鷲見さんが第1回を優勝するっていうのがとても感慨深いものがあって。鷲見さんは普段泣くような人じゃないから。鷲見さんがうるっとくるからさ。それを観たら、ぼくも涙がうつったんだよね。
そう照れくさそうに話す坂本。共に北海道本部を作り上げてきた同士、私たち一選手には見えない絆があるように思えた。
自分のやりたいことに苦労はない
これまでずっと本部長の役を担ってきた鷲見に、どんな苦労があったのかを聞いてみた。
うーん…。自分のやりたいことに対して苦労したって言うのはあんまり好きじゃなくて。それは自分のやりたいことだから当たり前だって思っちゃうんだよね。みんな、麻雀頑張りましたとか仕事頑張りましたって言うけど、自分のためにやってることだから、それで受ける苦労は苦労と呼ばないんじゃないかって思うんだよな。だから、苦労したことはあまりないかな…。
言うことがいちいちカッコイイ。鷲見らしい回答ではあるが、インタビュアーとしては何か引き出したい。
まぁ…うーん、もしあるとすれば、本部長を演じないといけないっていう部分では、なかなか難しい時もあるかな。本当はもっとみんなとフランクに接したいとか麻雀したいとかあるけど、自由にできない部分はあるよね。自分は気にしすぎちゃうところがあるんで。やっぱり公平な一歩引いた目で常に見てないといけないから、自制しないといけない部分はあるかなぁ。それくらいかなぁ。
北海道本部内ではわりと近くで鷲見を見てきた筆者としては、きっとこの言葉以上に自制してきた部分があるように思える。大きな苦労を何度もしてきていることも知っている。自分のお店の経営もある中、本部長として常に会のため会員のために駆け回り、公平な目で課題と向き合いながら困難を乗り越えてきた。だが、鷲見はそれを表には出さない。一度始めたら途中で投げ出さず、それが自分のやりたいことである以上、彼の口からはきっとどんな苦労話も出てくることはないのだろう。
クラークリーグで勉強を重ね、再び大きな舞台へ
ここで、選手としての鷲見について聞いてみた。麻雀の研究や勉強はどういう環境でやってきたのか。また今後の目標は?
プロ2年目のときに、村上淳さんと坂本さんと勉強セットをしてもらったんだよね。毎局終わったら手牌を開けて話すスタイルで、2半荘。その時に二人の麻雀論を聞いて、あぁこの人たちが本物のプロなんだって思った。そういうのがまだ北海道には伝わっていない時代だったから、これを広めなきゃいけないって思った。こんなにも読めてちゃんと言葉にできる人たちがいる。こういう風に勉強していれば方向性は間違いないし、これを伝えていくのがぼくの使命だなって思ったんだよね。それが、坂本さんとのクラークリーグにも繋がっている。
クラークリーグは、5年前に坂本大志、鷲見智和、山家輝生、小澤孝紀、伊藤聖一の5名で始めた私設リーグで、現在は8名で行われている。東京では研究のための私設リーグが多数あるが、北海道ではまだまだ少ない。
ぼくにとってはクラークが一番の勉強の場。なにより坂本さんの話が聞ける。そして、それをぼくらが若い子たちに伝える。ぼくはあの場で麻雀の本質的なことを学んだ。今北海道の中でそこそこ結果を残せているのは、間違いなくクラークリーグのおかげだよ。
今後の目標は…やっぱりタイトルの決勝には出たいよね。そこで優勝して、さらに大きな舞台には挑戦したい。より厳しい環境だったり、強い人と勝負できる場で自分を試したいっていうのは常にあるかな。まぁまだ結果は全然出せてないんだけど。
勝つまで突き詰める負けず嫌いの精神は、幼き頃から何も変わらず心に秘めているようだ。
父としての顔
最後に、鷲見のもう1つの顏を紹介したい。それは、父としての一面だ。彼は結婚と離婚を経験し、愛する1人息子がいる。今回インタビューの場所に選んだのは、岩﨑と始めた小さな麻雀荘の隣にあるジンギスカン屋。その道すがら、古いカラオケ店を横切った。
この前も息子と二人でここに来たんだよね~。
嬉しそうに話す鷲見。息子はもう14歳になる。思春期の息子が父親と二人カラオケに来るなんて、自分のその頃を思い出すと想像もつかない。
前は必ず一緒に映画も観に行ってたんだけど、最近は友達と行くようになってさぁ…
今度はとても寂しげだ。鷲見はいつも物腰柔らかではあるが、表情が豊かな方ではない。しかし、息子の話をする時はいつも以上にふっと肩の力が抜け、嬉しそうだったり寂しそうだったり、素顔を見せる。一緒に暮らしてはいないが、息子との時間が彼にとっては最も大切な時間のようだ。
父として、経営者として、麻雀プロとして、本部長として、鷲見の毎日は多忙を極める。しかし、彼の根本は揺れない。静かな情熱を心の中で燃やし続け、いつも公平な目線で私たちを見守り、北海道本部を引っ張っていってくれる。
だから、私たちはこれからもこのリーダーについていく。