コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.57】嶋村俊幸 ~老兵は死なず、ただ消え去るのみ 漢気あふれる嶋じいの過去を振り返る~

(インタビュー・執筆:平賀聡彦

 

嶋村俊幸。

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最高位戦会員の中では6期入会の清水昭に次ぐ高齢(72歳)であり、昨年まではリーグ戦出場選手の中では最年長でありながら最高峰A1リーグに在籍していたが、今期リーグ戦を引退した。

選手生活のほか、毎週木曜日には神田でオープンリーグ『シマプロオープン』を主宰するなど、年下の後輩や一般の麻雀ファンにも分け隔てなく接し、嶋じいと呼ばれ愛されている打ち手である。

30年以上も最高位戦のリーグ戦に参戦し、近年はA1リーグでの漢気溢れる麻雀にファンも多かった嶋村に、リーグ戦を引退されるということでお疲れ様の意味も込めて、最高位戦との関わりなど、様々な角度から話を伺うこととした。

 

いきなり出た大会で優勝してプロになることを勧められた

嶋村が麻雀プロになるきっかけが訪れたのは、30歳半ばであった。

週末にいつも行く雀荘でのんびりしていたら全段審(一般社団法人全国麻雀段位審査会)の大会を昼間にやっていて、人が足りないから出てくれって頼まれたんだよ。しょうがないから出たら優勝しちゃって、それが大宮(現さいたま市)の大会だったから次に埼玉県の大会に出ることになって、そしたらまた優勝して、そのまま関東大会出たらまたまた優勝しちゃったんだよ。

たしか有楽町の「錦江荘」でやったんだけど、トロフィーやらなんやらで荷物が多くなりすぎて帰りはタクシーで帰ったの覚えてる。

こうして関東代表として大阪へ行き見事全国大会に出場したが、無念の敗退となった。

だってルールが全然違うんだもん。現物以外のフリテン無しっていうやったこともないルールで、4ソー切ってあるから1ソー切ったら「ロン!ピンフジュンチャン三色」とか言われてしまって。対応できなかった。

それでもどうにかトップとって結局3112で全体16位だった。それで地元に帰ってきたら、全国で16位は埼玉の最高順位で快挙だって話になって、埼玉の麻雀新聞の取材を受けてさ。その時の記者の人にせっかくだから麻雀プロになったほうがいいと強く勧められて、プロテストを受けることにしたんだ。当時30半ばで会社もやっていたし結婚もして子供もいたから、あの記者の人の強い勧めが無かったら麻雀プロにはなっていなかっただろうなあ。

人に歴史あり。出会いが人生を変えるとはこのことである。

こうして受験した最高位戦プロテストの話を聞いてみよう。

それで筆記は過去問とか解いて勉強して、プロテストを受けた。筆記、実技、面接があるんだけど、面接官が当時近代麻雀の編集長だった来賀(故・来賀友志)さんだった。プロには興味無かったけど近代麻雀は読んでいたから、この人が編集長かあと思ったよ(当時最高位戦は竹書房が運営していた)。

6,70人ぐらいいたけど、再試験や関係者を除けば一般で受かったのは俺一人だった。忍田(忍田幸夫・麻将連合)や五十嵐(五十嵐毅・日本プロ麻雀協会)もたしか同じ年に受けてたね。ちなみにセットとか仲間内みたいなフリーでしか打ったこと無かったから、7700とか11600とかもわからなかったし、実技の時に捨て牌を延々と一列に並べてたら、半荘の合間に「6枚ずつ切るんですよ」って教えられたよ。

 

己の感覚を信じて戦った『ダンプ嶋村』

最高位戦に9期入会した嶋村は、連続昇級して11期の決定戦に進出。

競技麻雀の世界に飛び込んですぐに結果を出し始めた。

なんでもその頃は、麻雀の打ち筋の激しさから『ダンプ嶋村』と呼ばれていたらしい。

平賀がストレートAリーガーとか言ってたけど、俺が元祖なんだよ。何でもかんでも突っ込んでいってたから、『放銃を恐れない男』とか『ブレーキの壊れたダンプ』とか呼ばれてた。当時は旧最高位戦ルール(現在のClassicルール)だったし、こっちは競技麻雀なんてよくわかってないから、強い牌を切って周りをおろして後はやりたい放題。

だいたい昔は手積みで、点数表示も当然無かったから点差も暗記だったし、今とはだいぶ違うよ。俺なんかは点差はおおまかに覚えていたくらいだったし、手出しツモ切りも大事な時以外は9割は覚えちゃいないね。

それよりも次に何が来たらどうするのかとか、自分の感覚とかが大事だよ。昔は当たり牌を掴んだら指先がしびれるみたいな感覚があったし、リーチをすれば高めをツモれるからリーチをしなきゃ損だと思ってた。それが年を取ると安めしかアガれなくなって、しまいにはツモれなくなった…。

決定戦の話に戻そう。

初出場した決定戦では最高位まであと一歩というところまで漕ぎつけた。

Aリーグも1位で決定戦に進出して、決定戦も最終日の22回戦までは首位だったんだけどね(当時は6回戦×4日間の全24回戦)。そっから金子(金子正輝)に連勝されて結局捲られてしまった。次の年は全然だめで降級して、そのままCリーグまで落ちて再受験まで落ちたよ…。

最高位戦年鑑から紐解くと、リーグ戦最終節に親の国士無双をアガって首位で決定戦に進出した嶋村は、決定戦二日目に首位に立つとそのまま最終日まで首位を走るが、最終日後半にプレッシャーからか崩れ始めた嶋村を金子が連勝でとらえて最高位返り咲きとなっている。決定戦メンバーは、金子正輝(9,11,12,24期最高位)、大隈秀夫(7期最高位)、井出洋介(19期最高位・現麻将連合)と錚々たるメンツ。

再受験まで落ちた嶋村だったが、それでも筆者が29期に入会した時にはAリーグに返り咲いて活躍していた。

本当に「しぶとい」という言葉がよく似合う。

 

息子・恭介と共に麻雀プロとして歩んだ19年

30期には二度目の決定戦に進出。

その頃に息子も入会し、最高位戦初の親子鷹となる。(嶋村恭介選手29期後期入会)

息子に麻雀プロになると言われたときはどう思ったのか。

別に。本人がなりたいなら、なればいいんじゃないかなあと。恭介は次男なんだけど、本当は兄貴のほうが麻雀強かったんだよ。でも長男は実家の会社を手伝ってくれてたし、プロにはならずじまいだった。

同じリーグになったら、リーグ戦辞めると公言していた嶋村。

結局B1とB2で肉薄したことはあったが、同リーグにはならなかった。

そうだなー。こればっかりは麻雀の実力もあるけど、タイミングや運とかの部分もあるからなあ。それに同卓だと自分たちはもちろんだけど、周りも気を使ってやりづらいだろ。

そう答える嶋村からは、麻雀打ちとしてのプライドや親としての威厳と同じように、息子に対する叱咤激励や乗り越えていってほしかったという一抹の寂しさが感じられたような気がした。

息子の恭介はこう語る。

コロナの世間的な状況や、体力的な問題もあって、本人自体のモチベーションもだいぶ下がっていたので、今回リーグ戦引退という形になったと思う。ただ対局が無いと家でぼーっとしてるだけで手持ち無沙汰な感じなので、体力が続いて麻雀プロとして必要とされる限りは、何かしらの対局に参加してもらいたいなと思ってる。

最高位戦に入会した当初は何かにつけて嶋村の息子と言われ正直それが煩わしかった部分もあり、いつか親父にリーグ戦で追いついて対局で勝つことを目標にしていたがそれは果たせなかった。家で放送対局とかを一緒に見ながら、何切るの話をしていても的外れでちゃんとした答えが返ってこない。だが実戦で打ってる所を見ると正解を選んでいる。若い時はわからなかったが40歳を過ぎてそれが親父の強さなんだなと少しずつわかってきた。デジタルな情報だけに縛られず、相手の雰囲気や仕草や癖、長年培った勝負勘などのアナログな情報も織り交ぜて判断していく実戦的な強さ。

自分も年を取るにつれ一日4半荘最後まで集中力を保ち続けるのが難しくなってきた。そんな時に親父の「60歳を過ぎてからは、気力を抜けるときはだいぶ抜いて対局中もメリハリをつけてる」の言葉を思い出す。麻雀打ちとしてまだまだ追いつけないなあと感じてます。

そうして背中で語ってきた嶋村だったが、醍醐大が初戴冠を果たした第45期の決定戦を最後に、一線から退くこととなる。

(醍醐とのリーチ合戦を制し、三色同順の2pを直撃した瞬間)

 

商業で生きてきた嶋村が語る「Mリーグチームを作ろう!」

家業の話が出たので、それについても詳しくきいてみた。

百貨店やメーカーの発注を受けて贈答用など箱を作る製造業。高島屋からお歳暮のタオルを入れる箱を頼まれたり、文明堂のカステラの箱を作ったこともあったよ。景気いい時は、月の売り上げが1000万を超えたり、年商1億を超えたりした。

そんな感じで若い時から商工会議所のメンバーだったから、地元の企業の社長さんとかとも横のつながりがあって、最高位戦が自主運営になった時にはスポンサーのお願いにも行ったなあ。 

そういえばMリーグが出来た時には、麻雀とゴルフ仲間の大企業の社長さんがいたからチーム作って参加してみませんかって話したこともあったよ。結局会社で会議にかけたら通らなかったらしいけど。ちなみに俺が監督をまかせてもらってチームを作るとしたら、一番頼りにするのは平賀だな。

平賀は変わってて、たぶん誰に聞いても変だって言われると思うけど、理論じゃない強さみたいなのを持ってるからな。麻雀はやっぱり感覚が大事だから。まあ俺が一緒に打ったら負ける気はしないけどな。

だいたいAリーグでリーチかけてきたら、出やすい待ちか打点はこれぐらいかって考えるんだけど、平賀のリーチはメチャクチャだから無視。ほんと待ちも打点もメチャクチャだから。高い時は、雰囲気やリーチの声の大きさでわかるからバレバレ。

褒めてくれたのかと思えば、ほとんど貶されている気もするが…。

気を取り直して、嶋村の考えるベストメンバーについて聞いた。

川上(川上貴史・今期最高位戦Classic1組優勝)かな。川上は考え方もしっかりしていて強いからいずれA1に上がってくると思うよ。女性は愛内(愛内よしえ・日本プロ麻雀協会)。女流の中では一番じゃないかな。

あとは、新井(新井啓文)と醍醐かな。醍醐とかは他のチームに取られそうだけどな。理論だけで打つ人はわかりやすかったり脆かったりするから、やっぱりそれ以外の部分で強さを持ってるタイプがいいね。

平賀、川上、愛内、新井、醍醐。なかなか個性的なメンバーが揃った。嶋村らしい実戦派の顔ぶれだ。こんなメンツでチームが組まれるとなると、ワクワクする。

 

本当は生涯現役で、タイトル獲るまでは頑張ろうと思っていた

最後に今期リーグ戦を引退するにいたった経緯について、話しづらいこともあるかもしれないが、無理を承知で聞いてみた。

競技規定が変更になって、より複雑化したことが大きいかな。それでなくても最近打っていて競技マナーの部分で一日に3,4回立会人を呼ばれるようになった。団体をいい方向に持っていこうとみんなで決めたことだから、言いたいことを飲み込んだ部分もあったけど、正直納得出来ない部分もあった。こっちは30年以上もこのスタイルで麻雀を打ち続けてきたんだから…。

あとはやっぱり体力面かな。リーグ戦は長丁場になるから、体力が続かなくなって、最終半荘の勝率がどんどん落ちてきた。目も手術もしたけどどんどん悪くなってきて、対面のマンズとか見間違ったりするし。

そんなのが重なってモチベーションを維持していくのが難しいと感じた。ほんとは生涯現役で、いつかタイトル獲るまでは頑張ろうと思っていたんだけどな。

老兵は死なず、ただ消え去るのみ、そんなフレーズが頭に浮かんだ…。

 

タイトル戦の帰り道、嶋村と一緒に歩いたことがある。

普通に歩けば5分ぐらいの道のりを、嶋村はゆっくりゆっくりと歩いていた。

2人でその日の対局について語らいながら歩いていたが、

半ばぐらい歩いたところで「ちょっとしんどいから座って休みたい」と嶋村が言った。

駅はすぐそこだし先に帰っていいよと言われたが、2人で座って休める場所を探して休みながらいろいろ話したことを覚えている。話しながら、普段打ってる時は気迫に満ち溢れ年齢を感じさせない嶋村だが、やはり年齢的に大変な部分もあるんだなあと感じた。

そして、それでも嶋村を対局に向かわせる想いとは何なのだろう、自分が同じくらいの年になった時果たして麻雀プロを続けていられるのか、そして麻雀に対しての想いを持ち続けていられのだろうかと考えさせられた。

 

嶋村の麻雀を一言で表すとしたら【漢気】だと思う。

代表の新津(新津潔)も「この年齢まで打ち続けているだけですごいこと。麻雀もしぶとい。自分と同じく今どきの麻雀プロとは一線を画す昭和の打ち手」と語るように、その背中と打ち筋で語ってきた。それは、数々の麻雀愛好家の胸に深く、焼き付いていることだろう。

今回のインタビューを通じて、嶋村の麻雀プロとしてのプライドや矜持、そして漢気を感じることができた。読んでいただいた方に、少しでも伝われば幸いである。

 

ありがとう嶋じい、そしてこれからもよろしく!

 

(画像引用:スリーアローズコミュニケーションズ)

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