コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.56】有賀一宏 ~飯田正人を慕った男はタイトルを獲得し墓前で勝利を報告したい~

(インタビュー・執筆:中郡慧樹

FACESで有賀一宏さんを取り上げることになりました、と編集長の成田裕和から連絡を頂いたのが3月中旬のことである。

「中郡さんに有賀さんの記事のインタビューと執筆をしていただくことは可能ですか?」

インタビューや執筆の経験はほとんど無いが、有賀さんと飲みに行く回数では最高位戦内でもかなりの上位に食い込んでいる自信があります!ということで、「是非やらせて下さい」とすぐに返信をした。

有賀 一宏(あるが かずひろ)

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今回、有賀の過去と現在、今後について、いろんな角度から切り込んでみた。

そして、有賀を語る上では欠かせない、飯田正人の存在もこの取材で様々なエピソードを聞くことができた。

 

麻雀部を作りたいと思った学生時代

有賀は長野県諏訪市出身。御柱祭で有名な地域である。幼少期の話はあまり聞いたことがないが、どういった生活だったのだろうか。

結構な田舎町で、なんもない街というか。麻雀覚えたのが中1ぐらいなんだけど、面子がすごく集まりづらかったんだよね。小学校からの同級生の友達とやっていて、仲が良い固定メンツが2人いたんだけど、4人目がなかなか集まらなかった。めちゃくちゃ普及活動というか、いろんな人に声をかけていつもギリギリ4人目が集まるみたいな。

毎週のように友達の家に集まって毎週のようにやっていたなぁ。中学生が手積みで毎週よ。誰かが力尽きたら寝て、目が覚めたらまた始まって…(笑)

麻雀との出会いが中学生の頃というのは、かなり早いのではないだろうか。いまの最高位戦の中を探しても、中学生から麻雀をしていた人を見つけるのはなかなか難しいように思う。

筆者が麻雀を覚えたのは偶然にも中学生の頃であったが、麻雀仲間みたいな友人は常に4人以上いて、2卓目を作るために誘われたことがきっかけだったように記憶している。

こういった話を聞くと、面子に困ることが無かったということはとても幸せなことだったのだなぁと改めて感じさせられる。

さて、中学生で麻雀を覚えた有賀はどんな高校生活を送っていたのだろうか。

高校でも似たような生活をしていたなぁ。中学で麻雀の面子集めが大変だったから、高校で麻雀部を作ろうと思って。部活を決めるタイミングで部活を申請しに行ったのよ。そしたら麻雀はダメだって!通っていた高校に、「全国大会みたいなものが無いものは部として認められない」みたいなことを言われてね。残念ながら麻雀部は作れなかった

実際にそのような決まりがあったのかどうかは定かではないが、ひと昔前までの麻雀のイメージからすると、学校の先生もそのように言うしかなかったのであろう。

とにかく麻雀をするために、めちゃくちゃ真面目に高校生活を送っていたんだよね。学校の先生や友人の親御さんからの評価を落とさないために、ずっと通知表オール5のような成績を取り続けるみたいな。

というのも、実際に麻雀ができるのが(友達の家に行ける)週末だけだったからね。平日はもう公務員のように真面目な生活で、無遅刻無欠席よ麻雀やっているから成績悪くなるというのが嫌だったんだよね。

これは本当に凄いことであると感じる。麻雀を覚えたての頃は面白くてのめりこんでしまうことが多いように思われるし、学生時代だと時間もたくさんあるため、ズボラな生活を送ってしまいがちである。

あとは、周りが週刊少年ジャンプとかマガジンとか買っているなか、麻雀ができない時の麻雀欲を満たすために、近代麻雀を買っていたね。少ない小遣いで買っている雑誌だから、隅から隅まで目を通してたなぁ。

この頃を知っている人も今では少なくなってきているのかもしれないが、近代麻雀自体が月に2冊出版されていたし、それとは別に近代麻雀オリジナルと近代麻雀ゴールドという雑誌も月に1冊出版されていたため、毎月4冊の近代麻雀を読むことができた時代があったのだ。

近代麻雀の漫画の枠外に何切るとか点数問題があるわけだよね。あれも隅々まで読んでいたから、その時から小林剛という名前を知っていたな。たしかその頃、剛さんが何切るを載せてたんだよなぁ。

 

麻雀漬けの生活がスタート

幼少期から麻雀を覚えその魅力にどっぷり浸かった有賀だが、大学に入るタイミングで上京することになる。

高校を卒業して横浜の大学に通わせてもらっていたね。大学生ぐらいになると麻雀する人も増えてくるので、入学したころは麻雀のセット面子には困らなくなったんだけれど、どんどん誘われなくなるんだよね・・あいつとやっても全然勝てないみたいなかんじで(笑)

中学高校時代の話を聞いていると、それも納得である。

あいつ麻雀強いぞという噂が流れ始めたころ、大学の近くにフリー雀荘がオープンするとなって、そこの責任者の人が噂を聞きつけてオープニングスタッフに誘われて。面接した記憶もないんだけど、それがきっかけで念願の麻雀店店員のデビューを果たしたんだよね。平日だけで月に400半荘ぐらいは打ってたな。

月に東南戦を400半荘は打数としてはかなり多い量である。

筆者も似たような生活をしていたのでよくわかるのだが、麻雀を打つことが楽しすぎて、仕事以外でもずっと麻雀を打っている時期だったのだろう。

そんな生活を大学1年の頃にやってフル単位だったんだけど、たださすがに疲れてきちゃって学費は自分で出していたんだけれど、自分のなかで優先することが学業じゃないことが明らかになってきて、麻雀中心の生活になっていったかんじかな。

 

小林剛との出会いをきっかけにプロの道へ

有賀は大手麻雀チェーン店『マーチャオ』で長年社員として勤務していたのだが、どういったきっかけでマーチャオに入社したのかを聞いてみた。

さっき話したお店でどっぷり麻雀を打つ生活が6年ほど続いていたんだけれど、社員として雇って貰えるような規模のお店ではなかったんだよね。社員登用のあるお店に行きたいという希望を持っていた頃に、ちょうど求人誌で見つけたのがマーチャオ新宿店(以下、新宿店)のオープニングスタッフ募集だったんだ。24歳ぐらいのときの話だね。

マーチャオ新宿店というのは禁煙店の先駆け的な存在で、禁煙雀荘というのは20年ほど前にはほとんど存在していなかった。

当時は禁煙雀荘といえば、新宿店とfairyぐらいしか無かったよね。

あとはすごい偶然だったんだけど、当時の新宿店に小林剛さんが居たんだよね。初めて会ったときは、「これがあの何切るを作っていたスーパーデジタルの小林剛かぁ」と。たぶん剛さんが初めて会った麻雀プロになるのかな?ただこの頃は麻雀プロの存在は知ってはいたけれど、遠い世界の気がしていた。自分がなるものというよりは、芸能人に近いイメージだったんだよね。

初めて会った麻雀プロとなる小林剛の印象はどのようなものだったのだろうか。

やっぱりその知識の深さとかに感銘を受けた記憶があるね。僕も競技麻雀に興味があって「プロ団体を受験したいと思ってるんですが」っていう質問をしたことがあったんだけれど、「最高位戦かμがいいんじゃない?」って言ってくれて。

ここで有賀と最高位戦が繋がってくる。

それで最高位戦とμのテストの日程を調べて、日程が近かった最高位戦を受けてみたっていうのがきっかけになるね。無事に1発で合格できて最高位戦に入会できることになった。

 

飯田正人の弟子になりたかったが、最初は普通に断られた

新宿店から2年ほどで高円寺店に異動した有賀。この頃から筆者も有賀とよく顔を合わせることになったように記憶している。

新宿で2年ぐらい働いたあとに高円寺店に異動になったんだったかな。煙草の煙が結構すごいお店だったんだけれど、異動を受け入れたのは飯田先生がいたから。一緒に働けるなら喜んで行きましょうと。飯田さんと初めて会った時に、飯田さんは既に8回最高位を取ってた

そんな人に麻雀を教えてもらいたいと思って飯田さんに申し出たら「いや〜、麻雀教えるのとか得意じゃないよ」って。

(故・飯田正人。麻雀を言語化して説明するのがすごく苦手だったと知人らは語る)

たしかに、飯田正人が弟子を取っているという話は全く聞いたことがない。

それで、「えてもらわなくていいんで、何か質問をしたら答えられる範囲でいいので答えてください」と言ったらしぶしぶOKしてくれて。

ていうかんじで麻雀の話を毎日のように…まあ話といっても一方的に質問するだけなんだけど。

半分ぐらいは覚えてないなぁという回答だった気がするけれど、貴重な経験だった。そうして飯田さんと関わっていって、最終的には飯田さんのマネージャーみたいな立ち位置だったかも。最高位戦の諸先輩方とかさ、「飯田さんと連絡取りたいんだけど」って俺に言ってきたりするぐらいだった。

筆者からしてみればとても羨ましい環境である。

運営に携わるようになったのはその頃からかな。できるだけ飯田さんの麻雀を見たかったから、高円寺店の勤務中でも見れる時は見ていたし、対局も見たかったから積極的に採譜をしに行ってたんだよね。

あとは高円寺店もシフトの人員が足りてるわけではなかったから、働ける人を採用するために新人研修で見に行こうとか。ありがたいことに入会2年目から新人研修の運営をやらせてもらってたんだよね。

当時としては、入会2年目から運営をするというのはかなり珍しいことであった。

そういう運営をやっていたからか、谷井さん(谷井茂文・RMU)とか聖誠(佐藤聖誠・現協会)が高円寺店に来てくれたりした。

あとは飯田さんと打つために、飯田さんの出勤とともに古久根さん(古久根英考)とか誠一さん(近藤誠一)が麻雀を打ちに来てくれたりとかもあって。お店のスタッフが打ちたがらないから私が積極的に打たせてもらって、たくさん学ばせて頂きました(笑)7-8年は高円寺店にいたのかなぁ。

かなり長く高円寺店で勤務していたようだが、その他に印象的な思い出はあるのだろうか。

あと高円寺店での印象的な思い出としては、飯田さんが亡くなった年のことかな。

飯田さんが亡くなった年に誠一さんが最高位をとって、高円寺店に誠一さんがトロフィーを持ってきて「店にトロフィーを置いてくれないか」と言ってくれたんだけれど、お店側としては何かあったときに責任が取れないからちょっと難しいです、って回答せざるを得なかったんだよね。

そんなときに誠一さんが、飯田さんが麻雀打ってないときにいつも座ってた休憩スペースに「取り返してきたぜ」とトロフィーを置いたんだよなぁ。涙腺がゆるんじゃったよね。

これぞ近藤誠一、と言えるようなエピソードである。

飯田さんのFACESのときのインタビューでも話したことがあるんだけど、その時の誠一さんの姿を見て、自分がタイトルを取ったら富山まで墓参りに行こうと思ってるんだ。けど全然取れてないんだよね早くタイトルを取って、飯田さんのお墓参りに行きたいね。

 

飯田さんに後ろ見してもらった、初のタイトル戦決勝

今のところタイトルには恵まれていない有賀ではあるが、過去には第4期の最高位戦Classicの決勝に残ったことがある。筆者は2日目の採譜をしていたのだが、かなり劇的な内容だったのが印象的である。

4年目のときに初めてタイトル戦の決勝に残って。準々決勝ぐらいまで残った時に、飯田さんに「決勝残ったら見に来てくださいよ」ってダメ元で言ったんだよね。そしたら「いいよ』っていう返事をもらって嬉しかった 

そしてそのまま勝ち進んで決勝に残ったのよね。飯田さんって人の観戦とかしない人だったから期待とかはしてなかったんだけれど、なんと初日に来たんだよね!初めての決勝で凄くガチガチだったと思うんだけど、飯田さんが来てさらに緊張感が増したね。

(第4期最高位戦Classic決勝の様子。偶然にも筆者が採譜を行っていた)

第4期Classicの決勝だが、初日に坂本大志が4連勝をすることとなる。

飯田さんが3半荘目と4半荘目を見てくれて、坂本さんに4連勝されちゃったからどうしようってなってたんだけど。5回戦始まる前に飯田先生が「2番手につけておけばなんとかなるから、まずはそこを目指しなさい」って言ってくれて。5半荘目は見ずに先生は帰ったんだけど、そこで気が楽になって5半荘目トップを取って、2日目の足掛かりになったかな。

初日5半荘終了時のトータルポイントが坂本+88.1、有賀△5.9だったのが、

2日目の9半荘終了時点で坂本+128.6、有賀+96.6まで迫っており、

最終半荘は有賀にも現実的な優勝条件が残っていたのだった。

これは初めて言ったことかもしれないんだけれど、密かに嬉しい出来事だったんだよね。セコンドに飯田正人って後にも先にもそんなにいないよ!

たしかに、セコンドにいたらこれほど心強い人はなかなかいないだろう。

当時は神楽坂『ばかんす』で決勝が行われたんだけど、今みたいに動画を放送するということが無かった時代だったから50人近いギャラリーが決勝卓の周りに集まって観戦していたんだよね。50人に囲まれる麻雀は放送よりも緊張する気がする。結果としては惜しくもタイトルを取れなかったけれど、良い思い出だったね。

 

最高位戦で出会った仲間とのつながりに感謝

有賀にとって、最高位戦での人の繋がりについてはどのように感じているのか。

さっきも話したように入会して早々に新人研修を任されていて、半期後輩として以前個人店で一緒に働いていた知人が最高位戦を受験してきたんだよね。 

森川(森川健太・32期前期入会、後に退会)っていう奴で、自分より年下でこんな強いやつがいるのかと初めて思った相手だった。森川が主席合格だろうなと思っていたら、森川より点数が良い奴がいてさ。それが田中巌だった。 

巌は生まれ育った場所は違ったけれど、お互いに麻雀オタクというか、すぐに打ち解けたなぁ。麻雀もたくさんしたし、麻雀以外にも旅行とかもめちゃくちゃ行ったね。

(2枚目左から1人目が故・田中巌)

筆者も田中巌とはすぐに打ち解けた記憶がある。麻雀をきっかけとした人脈を作ることができるのが、最高位戦の良いところであると感じさせられる。

最高位戦に入るまではそんなに旅行とかしたことなかったけれど、麻雀を一緒にする仲間が出来てから、そういったいろんな場所への旅行とかも凄く好きになったから、最高位戦で得ることができた人との繋がりには感謝しているよ。今はとても幸せな環境だと思う。

 

VSに誘ってもらったのがめちゃくちゃ嬉しかった

有賀は最高位戦の猛者が集う『VS研』という勉強会に、かなり昔から参加している。

VS研は醍醐さん(醍醐大)が主宰している勉強会で、2期から参加させて貰っているんだけれど、誘ってもらった経緯が嬉しかった記憶があるな。麻雀強いかどうかの評価はわからないけれど、実績どうこうより、醍醐さんが一緒に勉強したいというメンバーとして呼んでもらったっていうところが本当に嬉しかった。

そういえば最初に醍醐さんに自分の麻雀の印象を聞いた時、「アルは凄い攻撃型だよね」って言われたのが記憶に残ってる。実は飯田さんと会うまで、俺ってとんでもないトップラス麻雀だったんだよね。

今の有賀の麻雀を見ているとあまりそのような印象は感じないのだが、あるタイミングで麻雀のスタイルを大きく変えたという。

昔はリスク回避よりもトップを取りに行くような麻雀だったんだよね。成績分布の形としては、完全な逆三角形だった。高円寺店に異動してきて飯田さんの成績を見たとき、ラス率が異常に少なくて衝撃を受けた記憶があるんだよね。それで、めちゃめちゃ勝っている。成績を残すために意識改革をして、今までの自分の麻雀を修正していったんだよね。たぶん醍醐さんは、高円寺に異動した初期のころの俺の麻雀を見て、「アルは凄い攻撃型だよね」っていう感想を持ったんだろうね(笑)

VS研自体は今が12期かな。1年で1期終わってないこともあるから10年以上はやっているけれど、本当に勉強になっているよ。

 

飯田正人を慕った男の覚悟の決意表明

最後に、今後の有賀の目標や、やっていきたいことを聞いてみた。

俺のなかでは、まずはタイトルをとって先生の墓参りに行かないと。先生が亡くなった年に誠一さんは最高位取って、谷井さんはRMUリーグで優勝して二人は富山にお墓参りに行ったんだよね。羨ましいよね!俺だって行きたかったよ。

でも今の実績では先生に会えないから、いつかタイトルを取って富山に墓参りに行きたいな。それがプレイヤーとしての目指すところ。もちろん麻雀強くなりたいというのはあるんだけれど、これ以上急激に強くなるのは難しいと思うから、自分が良いと思う選択を繰り返した先に結果がついてくるのかな…なかなか難しいところだよね。 

あとは最高位戦が大きくなっていって欲しいという気持ちもあるから、役にたてるように、運営(新人研修、技能検定)も引き続きやっていきたいかな。 

私生活としては、昨年長年勤めていた会社を辞めて、麻雀店のアルバイトに戻ったんだよね。仕事が嫌になったとか会社の待遇に不満があったとかではなく、やりたいことにチャレンジするため、自分自身が後悔しない選択を取ったというか。 自分の時間を作れるようになったので、やりたいことに積極的に挑戦していきたいね。

自分が後悔しない選択の先にはきっと、悲願の初タイトルが待っているはずだ。

いつかタイトルを取って、一緒に富山にいこう。

あとはお互い良い年だし、健康には気を付けないとな!

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