コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.55】小原有人 ~孤高の奇才、第4期北海道王者のこれからと夢~

(インタビュー・執筆:木村翼

最高位戦日本プロ麻雀協会北海道本部で呆れるほど麻雀が強く、人一倍変わった男がいる。

本部のA1リーグ選手、園田賢や醍醐大がリーグ戦において15年以上かけて積み上げてきた3500ポイント近い数字を抜かしかねない、その恐ろしくも驚異的なスコアは、入会から5年間で1501.6ポイント。

第4期 北海道王者 小原 有人(おばら あると)

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“馬鹿と天才は紙一重”この言葉は小原の為の言葉なのであろう。

人には考えられない奇行をし、人を大いに驚かせ、だがとてつもなく繊細で、頭脳は天才。

今回はそんな小原の素顔に迫ってみようと思う。

 

ちょろちょろしていて落ち着きがなかった幼少期

1980年3月生まれ、同い年の麻雀プロといえば坂本大志、新井啓文、北海道本部で言えば第20期女流最高位伊藤奏子という豪勢な年。

そしていきなり小原節が始まった。

なんと札幌市で生まれたのか石狩市で生まれたのかわからないそう…。

その後4歳の時に両親が離婚し、母親についていくことになったそうだ。

ばぁちゃん家で2年くらい暮らしてたのかな。そして、うちの母さんが再婚してその家に行った。俺はそんとき小学校1年生だったから、親父が変わってることに気づかなかったの。他の人がどうなのかわかんないけど、俺は一切わかんなかったね。犬がいたんだけど、犬が怖すぎてそればっかり覚えてる。きっと犬のことに頭いっぱいで親父が変わってることに気づかなかったんだろうね。

俺ね、受け入れ癖あるんだよね。そういうもんなんだって。だからなんとも思ってなかったのかも。

母さんはいつも味方だった。親父も本当の息子のように扱ってくれてたけど厳しかったの。だからね、嫌いだった。小学校5~6年の頃から37~8歳くらいまではうるせえなって思ってたかな。

そんなことがあるのか、普通。父親が変わったことに気づかないって…。

その後も小原の異様な行動は続いていく。小学生になってからの普段の生活はどうだったのだろうか。

ずっとチョロチョロしてた。椅子に座ってることもできなかった。授業中にいつも教室で暴れるから、怒られて外に立たされることもしょっちゅうだった。授業中とか、体勢が机に伏せた状態で足が後ろの席の人の顔のあたりにあるような感じだったしね。それが小学校三年生くらいだったかな。

住んでたところはどっちかというと田舎。自分の家のすぐ近くにばぁちゃん家があって、そこに獣道があってね。葉っぱ集めたり、木のボッコ拾ったりして遊んでた。そういうのって今でも性格に反映されてると思う。崖とか木を見ると登っちゃうんだよね。なんか怪我してもいいやって。笑

小学校では囲碁将棋クラブだった。パズルゲームが好きなのは昔からだったのかな。

想像していただきたい。小学生小原有人の授業中の姿勢を。そりゃ怒られますよ。

クラスに一人はいるじっとしていられない子。そんなこんなで成長していくわけだが、中学生、いや高校生になってもたいした変わってはいなかったようだ。

中学の時は喧嘩とかしてたわけじゃないんだけど、廊下を滑ったり、寝そべったり、壁を蹴って移動してた。そういうことばっかしてた。

高校はね、鼻血貯めてた。鼻血がすごい出る子で。もったいないなと思って、ビンに貯めてたね。その鼻血を押入れに入れてたら倒れて、すごい悪臭になっちゃったんだよね。それで匂い消そうと思って、牛乳って消臭効果あるって聞いてたから牛乳ぶちまけたりとか。あとリンゴならリンゴ置いといてどうやって腐っていくかとか。そういうの見てるのが好きだった。

ちなみにやったことある方はどれくらいいますかね?

相当にクレイジーに生きてきた小原だが、勉強に関してはどうだったのだろう。

まず中学のときに5教科の勉強はそれなりにできてたんだけど、それ以外だね。音楽だけは良かったんだけど他の3つが壊滅的だった。不器用なんだよね。

体育は先生に嫌われてたし。柔道の授業で先生を倒したんだよ。そしたら先生に目つけられてね、評価が2とかしかくれなくて。内申点は悪かった。

高校は大人しいグループのほうにいたかな。中学の時に学祭で演劇があって、俺が主役やったことあって。それで演劇楽しいなって思って演劇部に見に行ったことがあったの。そしたら演劇部なんてたくさん人のいる部活じゃないから見に来てくれただけでもめっちゃ嬉しがられて。同じクラスの人もたまたま見に行ってて、入んなよって猛アタックされて、流れで演劇やってたかな。でもそのおかげで今も演劇できてるわけだから、あれはデカかった。やっててよかったって思うよ。

ここで演劇と出会い、その後26年、現在も続いている『劇団YHS』で活動することとなる。

仕事が土日休み取れなかったときとか忙しい時期は、演劇には出ないけど籍は残すみたいな感じにしてもらって、飲み会にだけ出たりとかいう付き合い方になってたかな。もちろん、演劇に出れるときは出てたしね。この人達と一緒にいるの楽しいなーって。俺だけ別の高校だったのに仲良くしてもらってたしね。

 

アルバイト生活~就職~そして麻雀店店長へ

そして小原は大学を経て就職していくわけだが、その道中ほとんどの仕事をクビになっていく。

一番初めはコンビニのアルバイト。同僚の楽しみにとっておいたたこ焼きを、俺が食ったんだよね。そしたら店長に「あいつありえないです」みたいな感じで言われて、辞めさせられた。そもそも初めての仕事だったから何も分かんなくて。袋詰めも、お弁当とかを電子レンジでチンする時も縦に入れてたの。そしたらある日お客さんに、「兄ちゃんよ。俺思うんだけどこれ縦にしたらこぼれねえか?」って言われて、確かにって思ってそこで気づいた。そういうのが色々重なって、クビになったね。

でもお金が欲しいから、親父が働いてた『赤ちゃん本舗』っていうところがあって、そこのバイトやれって言われて行ったら、お前はホウソウの仕事やれって言われて。でも俺自分が演劇やってたもんだから、喋る仕事かなと思って行ったら、これやってみなって言われたのが包む方の包装で。全然ピンと来てなかったんだよね。いつ気づいたのかな、1ヶ月くらい気づいてなかったんじゃないかな。「あれ?包装ってこれかよ!」って。なんか放送の仕事やれって言われてたけどどこで喋るのかなーなんて考えてたらギフトの方にいてさ。

これまた波乱万丈のバイト生活である。1つ1つのエピソードが濃すぎやしないだろうか。

そして俺が大学4年のとき。麻雀店だね。ちょうど『たから島』(小原が経営している麻雀店の初期の店名)ができて、友達と一緒に行ってたんだよ。就職してからもずっと遊びに行ってた。

俺はね、たから島でも暴れん坊だったの。待合席で友達とプロレスしてギャーギャー騒いでやってたら、「いい加減にしろ!」みたいな感じで怒鳴られたりとか。で、仕事辞めたから、たから島で働けるかなと思ってたんだけど、そういうことをしてたもんだから、「あいつを働かせるわけにはいかないだろ」って感じで思われてたんだろうね。だから断られてた

それがしばらく真面目にゲームセンターで働いてたらさ、それを見た友達が「アルちゃん、ちゃんと働いてたよ」みたいな感じで言ってくれたらしくて、たから島で働くことを認めてもらった。22~23歳の頃かなぁ。

その後はずっとたから島の従業員してたんだけど、2~3年した頃、急にマッサージやりたいって思ったの。で、マッサージやりたいから学校行きたいってなって。大学出てるけど専門学校に1年間行ったんだよね。その時に麻雀店の仕事辞めて、2~3年整体の仕事するんだけど、その間に景気が悪くなっていったんだよ多分。ちょっとずつ日本の。とんでもなく売上が下がって。

その時に、ちょうど当時の彼女で今の嫁さんなんだけど、結婚をどうするかって話も出てたところで、この仕事じゃ食っていけんぞってなって。麻雀店の店長に戻って働くか、ちゃんとした整体の給料稼げるところに移籍するかの二択になって、麻雀店の方を選んだんだよね。そして結婚もすることになった。

やっと麻雀が出てきましたね。

ちなみにインタビュー中、麻雀についてはほとんど出てこなかった。中学生の頃に麻雀で遊んではいたようだが、

まともな麻雀じゃないけどね。ルール知らないしさ。一人でいっぺんに5枚とか持ってきたり。牌の取り合いじゃないけどそんな感じで遊んでたかな。

という答えが返ってきた程度。

パズルゲームが好きとあったが特に麻雀においては非常に高いセンスの持ち主だ。

ちなみに筆者とはたまに将棋も一緒に指したりするが、こちらも非常に強い。

筆者が考察するに現状のスキルが高いか低いかは別として、状況判断や空間認識能力に非常に長けている。思考順序の正確性も相まって、パズル・頭脳ゲームにおいて非常に高い能力を発揮するのだろう。

ましてや自分の好きなことなら尚更だ、探求心も高く成長曲線が他の誰よりも右肩上がりな気がする。

麻雀というゲーム、普通はある程度の領域に到達するとそれ以上というのは中々変化がわかりづらく微々たるものだ。高い水準で安定してスコアを出し続け、それが結果として小原の武器、豊富な選択肢の幅を狭めないことにつながっている。そんなことが自然と身についていたのだから脅威だ。

 

強いと言われているプロを倒すために最高位戦に入会した

そんな波乱万丈な人生を送ってきた小原が最高位戦に入会したきっかけは何だったのだろうか。

プロになるきっかけはね、当時札幌に土田浩翔プロ主催の『北海道最強戦』ってあったの。そこで有名な選手が最高位戦にいますと。伊藤聖一鷲見智和がいますと。「本当にこいつら強いんか?俺のほうが強いんじゃないかな。いっちょ確かめにいくか」ってなったのがきっかけだね。ちょうど子供が小学校に入学する時で、それまでは休みのたびに子供と遊んでたんだけど、月に一回くらい遊ばない日があっても良いんじゃないかということで、入会を決めた。

シンプルに強い人を倒したい、本当に強いのか確かめたいというのがきっかけだそう。

それにしても結果を出すのは早かった。

北海道リーグはC2・C1・B・Aと本部のリーグと比べるとまだまだリーグ編成は少ないが、それでも最短でAリーグに登るだけでも2年はかかる。5年目での北海道リーグ優勝と言うのは、並大抵のことでは無いだだろう。

 

前回の悔しい敗北を経て挑み、そして掴んだ北海道王者の座

前置きが長くなるが読んでほしい。

小原は2期前の第46期、始めて北海道Aリーグに昇級した年にも決定戦に残っている。

筆者は小原と同時に北海道Aリーグに2度目の昇級をし、小原のAリーグ1年目、第46期のリーグ戦を共に戦った。

そのAリーグ、筆者は無惨にも負け降級になったが、小原は500ポイントオーバーの圧勝劇を飾り1位通過で北海道王者決定戦への切符を手にしていた。

鬼神の如く強かった。ポイントの優位性を端から端まで使い、まるで隙という隙がない。

こちらに勝負手が入っても最小失点で局を切り抜けるための手法でかわされるばかり。

そんな無類の強さを誇った小原だが、決定戦ではいとも簡単に負けた。

このFACESのインタビュー後に、小原とお酒を飲み交わしながら過去の話をした一部が、録音されたまま残っていたのでその対話を読んで頂きたい。

小原:王者決定戦について言うなら一昨年かな、1回目に出たときは自信満々で。その年リーグ戦で500勝ったの。絶対に優勝するもんだと思ってた。リーグ戦で500も勝って、優勝は俺しかいないと。確率でいうと7割くらい勝つって。でも負けたの。その時に学んだわけよ。これはバランスが違うと。リーグ戦で気持ちよく勝ってるうちに、リーグ戦でその時の最適解というか、状況に許されての勝ち方に慣れすぎちゃって、またプラマイゼロからのスタート、よーいドン。で12回戦の試合として、バランスを変えられなかった。

 

筆者:今になって考えると俺もよく分かる気がする。似てる部分もあるのかもしれないけど、本質的に雀風がアルちゃんと俺じゃあ違ってた。俺の雀風は、決定戦のアルちゃん肌だったんだよね。今でもその名残はあるからアルちゃんは俺のことをデジタルだと言わないと思うけど。俺は振れ幅の多いワガママな麻雀を打ち続けてきたから、俺がリーグ戦優勝したときはそうやって勝ったのよ、本能的に。

当時は北海道Aリーグも半期リーグ(全5節)だったから3,4節目あたりは猛攻にあうんだよね。自分だけを沈められるというか。そんでもう1回フラットに戻るのよ。じゃあ最後もう一回勝負だってなって結果俺に目が出て、リーグ戦優勝できた。俺は元々、これまでリーグ戦はひとつの決定戦を打つような感覚で戦ってきたから、現行の全10節のリーグ戦で戦うスタンスの打ち方じゃなかったんだよね。アルちゃん、俺すぐAリーグ戻るから待っててよ。

 

小原:俺も1回目の決定戦出たときは、もうマイナス背負っての開始で選択肢が狭かったんだよね。捨て牌でいくら1000点ですか?8000ですか?っていう疑問を出せても状況が「あなたは8000です」っていうふうになっちゃうんだよね。だからいくら捨て牌を意識したりしても、捨て牌が意味を持たなくなっちゃうの。自分の麻雀じゃなくなっちゃうんだよね。

だから今回はその状況にならないでいきたいって思ってやったの。まぁそれは願望だけどね。数字のゲームを辞めて、ハートの勝負に持ち込んで勝負したの。1日目にすべての状況で勝負に出たんだよね。そしたら三連勝とかして180くらい勝ったんじゃないかな。確かにいい麻雀だったと。自分の好きな麻雀だった。

 

そして二日目。俺はもう、どこまでもいけるところまでは数字のゲームをやめようと。例えば、今この人が一番近いからこのひとをラスに押し付けたらとか。そしたら本当にそういうときがきたわけ。だけど俺は無視したの。自分がそこでノーテンって言って伏せさえすれば、現状トータル2着の人がビリのまま終わるわけ。でも俺そういう状況で伏せなかったの。開けたの。オーラスで焼き尽くしてやると。で、まぁその半荘トップで終わって。4連勝だったのかな。そしたら周りがそれまでよりも明らかに結託を始めて。やっと俺もそこから数字のゲームが始まったの。これはもう自分のワガママで勝ちきれる勝負じゃなくなったなと思って。じゃあ私も数字のゲームに参加しますって感じでやったかな。

同卓者が上手だったから結構追い詰められてね。最終日に東京行くときも、周りは「アルトさんおめでとうございます」って言うんだけど、俺は2日目に壮絶なマークされるのを体験してるから、恐らくは最終戦でツイた人が勝つ勝負だろうと思いながら行ったの。その中で11回戦で俺の方にいい目が出て、最後の勝負はもう流し運転みたいな感じだったんだけど。いい経験だったと思うな。

 

第4期北海道王者決定戦の11回戦目、

小原が特にピックアップして欲しいという局が3局あった。

せっかくなので本人には意図は聞かず、筆者なりに分析してみた。

まずは東3局。

トータルのポイント状況や持ち点は画像を見て欲しい。

なんと12巡目3sを引き入れテンパイするが、6pを切り親番でダマテンを選択した。

通常ならあまり見ない選択だ。大抵の人がリーチと言うだろう。

トップ目本田(本田晃一)から始まり、他家がギリギリ河に3mを放ってくれる可能性があることを最大限に生かした選択か、7,700点の加点は優勝に大きく近づく。

引き出しの多さを最大限に生かした選択だと思う。

状況によってはこの親番を他家のリーチを受けた時に無難に終わらせることも出来る。結果これを、

見事3mでツモる。

人によっては6000オールまであったじゃないか、と見る人もいるかもしれない。だがその裏には8000点や12000点の放銃も存在する。

状況最適バランスを捉えた小原特有の選択だろう。

 

お次は南1局4本場供託1本

中バックで8sのポンから入る。

形は微妙ながらも残り半荘数や点棒状況から太田(太田元基)の親番を軽く流す人間が他にいないことを考慮し、自身が安全を担保しつつ捌きにいった一局。

道中、自風の西が重なりリーチを受けるもきっちり捌ききる。

 

最後はオーラス2本場供託2本

本田、太田共に小原のトップよりも鷲見(鷲見智和)のトップを強く望んでいる状況。

簡単に他家が鷲見の親を落とすことは考えづらく、逆に親番の鷲見はテンパイさえすればいかなる形でさえもリーチは打ちやすい。その鷲見からリーチがかからないことを、ノーテンと読んでいるのか。

小原はヤミテンのカン7mテンパイを入れていたが、終盤6pを引いて壊す。自身で5枚もっている筋であること、形テンも入れさせないための選択がビッタリはまり、鷲見ノーテンでこの半荘を制する。

解説席にいたRMUクラウン連覇の当時A1リーガー浅井裕介はこう言っていたようだ。

「正直今日の内容でいつも麻雀をやってると思ったら、自分より強いと思いました」

 

小原のキャッチコピー、『テクの宝石箱』の名にピッタリの半荘だった。

最後の12回戦目はこの11回戦目のポイントの利を活かしそのままゴールイン。

一人のスターが生まれた瞬間だった。

 

王者、そしてその先へ

第4期北海道王者というタイトルを獲得した小原。

あまり自分からは語らない、今後の夢や目標について聞いてみた。

出てきた答えはあまりにも波乱万丈なふざけた人生を送ってきたとは到底思えない、素晴らしいものだった。

目標はね、ちゃんとある。麻雀って、頭脳とメンタル、全部の総合力の勝負だと思ってて、そのメンタルを勉強したのは武術かな。普段よく、武術の人たちの話を見たり聞いたりしてるわけ。『システマ』っていうね、ロシア武術をよく宣伝してるキタガワ先生って方がいるんだけど。そのキタガワ先生の話をよく聞いてたの。

キタガワ先生はね、国防の話をし始めたの。国防って言うけれど俺は政治家でも軍人でもないからどうやって国を守るか。そしたらキタガワ先生が今日本は一番死亡率の高い理由は自殺だと。自分はその自殺を少なくしたいんですよと。それが私なりの国防だという話にすごく共感して、俺もその力になりたいなって思ったんだよね。実際そのシステマの考え方だとか呼吸法を実践すれば確かに減るだろうと自分の中で実感があって。俺ってすごく楽観的だから、そういう物の考え方を世間に出すことによって少しでも救われる人がいたら嬉しいなってところが目的なわけ。今や麻雀はその手段に変わってる部分はある。自分は麻雀が得意だから、麻雀で勝つことによって名前を上げて、その手段をもって自分の言葉が届きやすくするっていうのが目的なの。

ものすごく、本当にものすごく意外だった。

でっかい夢じゃないか。

筆者のみならず、小原に接したことがある皆が感じているだろう。

本当にいつもふざけている人間だが、誰からも嫌われない、そして愛されるキャラクター。

小原と一緒にいると皆が笑顔になる。

実際に北海道王者を取っては見たものの、まだ発信力が足りないから、東京の方にいって最高位を目指す。それが今の順を追った目標かな。だから次の48期は北海道でリーグ戦をやるけれども、その次の49期は東京の方に転籍しようかなと考えてる。並行して出来るならどっちもやる。できないって言われたら、転籍かな。

俺は北海道愛が強くて、北海道の仲間と活動していたいって気持ちもかなり強いんだけど、東京の方で一旗あげて北海道にフィードバックするというか、そういう方法のほうがいいのかもなと思ってる。

まだまだ自分には足りないものがある。そう話をした小原の意気込みは力強かった。

 

筆者が胸の内に残していることをここで一つだけ語らせて欲しい。

アルちゃん、アルちゃんが目標を持って東京に移籍するのは本当に格好いい。

絶対に歩みを止めず走り続けて欲しい。でも一度だけ俺に戦わせてくれな、決定戦で。

 

また一人、北海道からスターが誕生した。

終わらない目標をいつまでも追っかける、そんな小原の背中を追っかけながら、また人が一人救われていく。

走れ、第4期北海道王者 小原有人

(画像引用:スリーアローズコミュニケーションズ)

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