コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.46】小宮悠 ~麻雀に命を救われたから、一生を麻雀に捧げる~

(インタビュー・執筆 浅見真紀

 

2019オープンリーグ優勝
プリンセスオブザイヤー2020優勝
第22期女流名人優勝
第16期夕刊フジ杯麻雀女王

 

2016年に麻雀プロとしての活動をはじめ、獲得したタイトルは上記の4つ。ここまでコンスタントに優勝を重ねる選手を見たことがない。
フォルムはなんだか小さくて小動物のようで可愛らしく、一人称は「こみ」だ。失礼を承知で言うがまるで麻雀が強そうではない。しかし、しっかりと強い。

しかも彼女は「理」で打ちながら「魂」も乗せてくる。

 

 

小宮 悠(こみや はるか)

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愛されゆるキャラの彼女が一風変わった半生を送ってきたというのは本人からも聞いたことがある。しかし、興味本位で過去を聞くのが躊躇われ、深く追求しなかった。いや、できなかったというのが正しいか。
耳を塞ぎたくなるようなエピソードも飛び出すが、それらはすべて、今の小宮悠を作り出した重要な出来事だった。

 

 

1987年、愛知県豊田市にて生まれ、育った。父、母、一つ上の兄の4人家族で、毎朝6時に起きて4人一緒に朝食をとる。大企業に勤める多忙な父親と一緒に食卓を囲むためだった。週末は家族4人でドライブやキャンプに出かける、仲の良い一般的な家庭だったという。
そして小宮は父親が大好きだった。

 

顔はお母さんそっくりなんですけど、たぶん中身は全部お父さんです。私の遺伝子はほぼお父さんから作られてるような感じ。ギターもドラムも、カメラも麻雀も、好きなものはすべてお父さんに教わりました。めちゃくちゃ優しくてとにかく好きで、思春期の父親への異性嫌悪も全くなかったです。

麻雀に初めて触れたのは幼稚園の頃くらいかな。おじいちゃんの家に初代ファミコンの井出洋介さんの麻雀ソフトがあって、その時に何もわからずちょっと遊んでたくらいです。父親が麻雀好きで母親にも教えていたので小学生の頃は家族麻雀もしてました。

役がなんとなくわかるくらいで、南2局とかに「疲れたからもうやめようよ~」とか言ってたりしてたので(笑)、麻雀にはなってなかったと思います。

 

優しく大好きな家族のもとでさぞ健やかに育ったのであろうと想像したが、小学生の頃、小宮にとってひとつの転機となる事件が起きる。

 

人間って面倒くさいって思った

学校で発表会があって、クラスで劇をやることになったんですよ。主要な配役を決めるためのオーディションがあって。私は受けるつもりなかったんですけど、仲の良い友達に「一緒にオーディション受けよう!」って誘われて、受けたんですよね。結局私だけ合格して役をもらって。それから仲間外れになっちゃいました。

 ドラマや漫画のようないわゆるイジメだったという。無視をされたり、上履きにガビョウが入っていたり。小宮は笑いながら当時の事を話していたが、10歳の小さな胸には大きな傷となったに違いない。 

そのイジメがあってから人間ってなんて面倒くさい生き物なんだろうって考えるようになりました。素直に傷ついた部分もありましたけど、なぜこんな不利益を被らないといけないのかわからないっていう思いが強くて、小学校5年生のころはほとんど学校に行かなかったですね。親も「嫌やったらいかんでいい」って言ってくれたのでそこは救われたかな。

小宮は母親から「なにを考えてるかわからない、子どもらしくない子どもだった」と言われたことがあるという。なんとなく母親の言いたいことがわかる気もする。小宮は誰にでも人懐こく朗らかではあるのだが、なんだか本心を出さず他者と一線を引いているように筆者には見えていた。

こういうイジメの経験からくるものなのかな、この話を聞いた時はそう思っていた。

 

音大に挑戦するか、看護師を目指すか

中学や高校では友達との付き合い方もバランスを取るようになりました。あんまり他人に強く興味を持たないように気を付けるようになっていたと思います。
3歳からずっとピアノを習っていたのもあってコンクールに入賞したり、中学生の頃には押し入れに入っていたギターを見つけて、お父さんに弾き方を教えてもらったりしてました。

父親の影響で大好きになった音楽を学びたいと思い、ごく自然な流れで音大を目指し勉強を始めた。

音大に行くために声楽が必須なんですけど、もうどうしてもこの声楽が好きになれなくて。音大には行きたいけど声楽は嫌。悩んでいた時にはたと気付くんですよ。ちょっと待てよ、音楽で生活していくって大変じゃないか?私にできるのか?って。

 小宮は多才である。絵を描かせても、歌を歌わせても、楽器を弾かせてもとにかく上手い。20年前の時代にペンタブを使ってPCで絵をかいていたというのも驚愕で、芸術文化に特化しているように見えるが、本人は至って謙虚だ。

絵も音楽も好きなものはたくさんあるけど全部趣味程度です。突出して上手なわけじゃなかったので、これで食べていくぞ!っていう夢は持てませんでした。現実的に考えれば考えるほど、音大を目指すよりも手に職をつけた方がいいなっていう結論になって。

 

筆者の思う10代は「夢を見るもの」である。やりたいことに向かってどう自分の人生を組み立てていくかを設計する時期とも言える。
しかし小宮は自身の実力を客観視し、やりたいことよりも職に繋げられること、生活していくことを優先した。

野望を持たない少女だった。

 食べていける仕事、そして人の役に立つ仕事という二つを軸に、小宮は看護師になることを決心する。元々文系だったが、猛勉強して名古屋市立大学の看護学部に入学した。

大学では軽音楽部に入ってたんですけど、ある日部室のソファで『アカギ』を読んでたんですよ。そしたらたまたま来てたOBの先輩が「麻雀わかるの?」って話しかけてくれたんです。その先輩が大学近く麻雀店の常連さんで、アルバイトを勧められて働きだしました。

麻雀は小学生の時の家族麻雀から成長していなくて、筋も知らなかったです。絵合わせ状態だったし点数計算も微妙だったんですけど、結局卒業までの3年半そのお店で働いて、卒業するころには符計算もできるようになってました。

 

どっぷりと麻雀にはまった小宮だったが、大学の単位を落とすことなくきちんと授業に出続けた。大学4年2月の国家試験では看護師と保健師の資格を取得し、無事卒業して大学附属病院に就職が決まる。

ここまでは小宮の思い描いたプラン通りだ。大学時代は毎日が本当に楽しかったと笑う。

 ところが、看護師生活が楽しかったか聞くと、小宮は3秒ほど考え、

つらかったです。すべてがつらかったです。

と答えた。

 

看護師としての新生活。突然体がおかしくなった

1か月の研修期間を経て、消化器外科を希望して無事配属されました。患者さんが治療で目に見えて元気になって退院していくのを見守りたいと思って外科がいいなって。

でも働いてると看護学生として学んだことなんて基礎の基礎の基礎だったってことがすぐわかるんです。患者さんが飲んでいる薬、入れている点滴、処置の手順を現場ではどんどん覚えていかないと使い物にならない。いい先輩ももちろんいましたけど、きつい先輩も多くて…日々強い言葉を投げられたりもしました。

でも、これは私の知識が足りないからしょうがないことだし、勉強すれば良いだけだなって思えたんですけどね。精神を病むほどではなかったですけど、疲弊してたとは思います。

 勉強し、怒られ、謝り、必死になって食らい付いていた7月ごろの事だった。

 朝出勤して、まず受け持ちの患者さんを検温して回るんです。全員分のバイタル(脈拍、呼吸、体温、血圧、意識レベルの測定)を見るんですけど、ある高齢の患者さんがなんとなく元気がなかったんですよね。バイタルの数値は問題ないし、命に関わる病気で入院していたわけじゃなかったので「どうしたんだろう?」くらいに思ってました。全員の検温が終わって、やっぱりさっきの患者さんが気になったのでもう一度様子を見に行ってみたら、心肺停止してたんです。十数分の間に。

 ビックリして緊急コールして、ドクターを呼んで蘇生措置が始まったんですけど結局そのまま亡くなりました。そのまま死後の処置も初めて経験して、その日はすごい喪失感でした。この出来事がとにかくショックで、なんでバイタルを測ったあの時に気づけなかったんだろうって自分を責めたりもして、次の日から体に不調が起きました。

色々なことが重なったに違いない。
初めての病院勤務、先輩からの叱咤、勤務時間外での勉強、寮生活、朝自分がバイタルを測った受け持ちの患者の突然の死…。
22歳の女性にそれでも平常心でいろと誰が言えるだろうか。

 

眠れなくなって、ごはんも食べられなくなって、仕事が休みの日に気晴らしに外に出ても気持ちが悪くなってすぐ帰ったりして。苦しいながらも1か月くらいはなんとか仕事をし続けてたんですけど、いよいよまともな生活ができなくなっちゃいました。

母親とも相談して病院に行ってみたら、うつ病と診断されました。

 

 医者の勧めで休職を決めた。休職中は大学病院の寮で過ごしていたが、家から出るのもおっくうになり、ただひたすら寮の部屋にこもる生活。このまま一生人の死を見続けないといけないのかという思いにさいなまれた。

友人からは病棟や所属を変えてみては?というアドバイスも受けたが、冷静に考えられる余裕はなく意欲が全くわかなかった。身の回りのこともできなくなり、実家に帰って就職した年の10月に退職願を出すことになる。

 働き始めてから退職するまでの期間が人生で一番長い半年だったような気がします。 

退職してから半年くらいは実家で過ごしたんですけど、その後「今なら働けるかも」って思うくらいに元気が出てきたんです。せっかく勉強して資格もとったし、いつまでも実家のお世話になるわけにいかないじゃないですか。で、体調の良い時に少しずつ就職活動もして、新しい勤務先を見つけて。
でもいざ働き始めてみると現場が怖くて怖くて…最終的には入口に入れなくなっちゃって、結局「ごめんなさい、やっぱり働けませんでした」ってこともありました。

 

小宮は足掻いた。人として、最低限の生活をしていかないと、という思いがそうさせた。
生きているのか生きていないのか、暗闇を歩くような日々が続いていた頃、とある変化が起きる。

ある日突然、すごく気分がハイになって三日三晩寝ずに創作活動に勤しんだんです。今ならなんでもできる気がする!って思いに駆られて、絵を描いたり、パソコンで急にホームページを作ったり、お金をたくさん使ったり。それが止まらなくなりました。

異変を感じた母親に病院に連れて行かれて、先生に「躁転してます」って言われた時は絶望しました。

 

 うつ病と診断されていた小宮だったが、新たにいわゆる「躁うつ病」という病名が宣告された。「躁うつは治らない病気」ということを小宮は看護学で学んでいた。だからこそこの診断は重すぎた。

そこからの時期は今はあまり覚えてないんです。何日も天井だけ見て過ごすこともあれば突発的に活動したくなって一人暮らしの家を探して引っ越しをしたり。結局一人暮らしを始めてもすぐ身の回りのことができなくなって実家に強制送還されたりしてました。でも自分ではコントロールが全然できないんです。
生きる希望なんて見いだせずに死を選ぼうとしたこともありました。

1日20錠以上あった処方薬は副作用も強く、30キロ太ったという。両親を含む家族全員で、とにかく小宮の心と体を生かすため病気と闘った。こうして文章にすることも憚られるような出来事もあった。

 

3年くらいかかって、ようやくなんとか仕事をして自立した生活をしようという意欲がわいてきたんです。投薬治療の効果だったのかな。でも看護師の仕事は私にはきっともうできないなって諦めて。自分ができる仕事を考えたときに学生時代に麻雀店で働いてたことを思い出したんです。それで当時働いてたお店の先輩に週1でいいので使ってもらえませんかって連絡しました。リハビリみたいな感じですね。

 

22歳で看護師を辞め、社会復帰を果たしたのは26歳の頃だった。

長すぎる闘病期間だった。

 

働いてみたら、朝起きて夜寝るっていう生活もできるようになってきて、気持ちの落ち込みもなくなってきたので実家を出て名古屋で一人暮らしをするようになりました。そこから不思議と症状がほとんど出なくなったんです。仕事も順調で、後輩の子に仕事を教えたり、シフトを作ったり、大事な仕事を任せてもらえるようになりました。お金も貯められるようになってきたのが28歳の頃かな。体重もだいぶ戻りました。

 人間に戻れたのが28歳ですと言って小宮は笑った。それまでの数年間は、人間の生活とは到底言えなかったのだろう。 

 

麻雀ってなんて奥が深いゲームなんだろう!

精神的に落ち着いて働けるようになって1年くらいしてからかな、お店で責任者のような立場になってきたので、強くならないとって考えるようになりました。牌効率っていうものをそれまであんまり考えていなかったので、雀ゴロKさんの本とか科学する麻雀とか、データ系の戦術本を読んで、「麻雀ってこんなに奥が深かったんだ!」って感激してました。

 間四軒?なにそれ?っていうレベルだったので、少し勉強してみただけで麻雀は論理的に考えることができるゲームだったことがわかって、めちゃくちゃはまりました。もっと知りたい、もっと勉強したいっていう欲がすごく出てきちゃって。

 小さなこどもが新しいおもちゃを与えられたときのような目の輝きで当時を語る。新しいことを学び、吸収するということが楽しくて仕方がなかったようだ。それまでの数年間、脳の刺激が少なかったからかもしれないと小宮は言う。そしてここから目まぐるしいスピードで世界が動き出す。

 勉強すればするほどお店での麻雀の成績も良くなってきて、より麻雀が楽しくなってきたんです。その頃、ふとこの世で麻雀が一番強いヤツってどこにいるんだろう?そいつを倒して自分が一番強いヤツになってみたいって思ったんですよ。

 突然、ドラゴンボールの孫悟空のようなことを言いだした。生きる目標を見つけ、ワクワクが止まらなかったのだろう。こみ悟空は、一番強いヤツはきっと東京にいるんだろうとあたりを付け、上京して麻雀プロになることを決めた。上京を決めたきっかけはこれだけだったというからこの行動力には鳥山明先生も驚かされるに違いない。

 

一日でも早く麻雀プロに

上京を決めてから3カ月で仕事先も住居も引っ越しもすべてを準備した。麻雀は大好きだったが、プロ団体のことは何も知らなかった。「麻雀プロになって強い人に勝つ」この思いだけに突き動かされた。

 なんとなく新宿に近いしっていう理由で阿佐ヶ谷のMAPで働き始めました。そこで働いていたRMUの先輩に、RMUならいつでもプロ試験が受けられるよって教えてもらって、とにかく一日でも早く麻雀プロになりたかったのでRMUを選んだんです。

 上京して1か月の2016年5月、RMUに入会。入会1年目にRMUの女流リーグであるティアラリーグの決勝に残った。

ティアラの決勝に残ったすぐ後にスリアロチャンピオンシップで優勝しました。でも当時は今と雀風が全然違って、ポンチーしまくってたんですよね。それで新人研修や入会審査を担当してた藤中さん(藤中慎一郎・RMU)と阿部さん(阿部孝則・RMU)に「お前の麻雀は軽すぎる。競技麻雀はそれじゃ勝てない」って言われて、悔しい思いをしたこともありました。

でも順位点と素点のバランスを説明してもらったら素直に納得できたので、自分の麻雀観をいったん全部リセットして。打点を作る手組ができるようになったし、感謝してます。
RMUでは運営や実況の仕事もやらせてもらえるようになってました。周りの方の評価のおかげでRMUクラウン決勝の実況も任せてもらったりもして。

 RMUでの活動は丸4年。リーグ戦も昇級して、オープンリーグ(RMU主催のオープンタイトル)を優勝して選手としても結果を残していた小宮だったが、他団体のプロがいる勉強会を見学したりするにつれ、心の中の悟空の部分がまた顔を出してくる。

リーグ戦も昇級してB級ライセンスも獲れたタイミングだったのですごく悩んだんですけど…より大きい団体でより多くの人と戦うステージに行きたいと思っちゃいました。当時の私は最高位戦が麻雀の内容や実力を最もストレートに評価する団体かなと思ったので移籍を決心しました。

 

麻雀に命を救われたから、自分の一生を麻雀に捧げたい

2020年3月に最高位戦への移籍が決まった。

そこからの活躍は冒頭に記した通りで、立て続けにタイトルを3つ奪取するなど目を見張るような活躍を今も続けている。

出場した対局ではほとんど勝っているような印象を受け、連勝街道まっしぐらに見えた。

いや、そんなことないんですよ。勝った時が目立つだけでめちゃくちゃ負けてますから!私はたぶん人よりたくさんたくさん出ているだけです。
スケジュール的に出られる対局は全部出るっていうのを自分の信条にしてるんですよね。そのうえで自分の中で掲げてる目標のひとつに「毎年何かしらの決勝に残る」っていうのがあるんです。参加人数の多いビッグタイトルも人数の少ないタイトルも含めて。それで毎年決勝に残ってるんですよ。

 

小宮は直近1年だけで言っても女流名人を獲り、その1か月後には夕刊フジ杯麻雀女王に輝いた。1年間何も結果が出ない選手なんて星の数ほどいる。

「毎年何かの決勝に残る」という目標を達成できていることがすさまじい。学ぶことが好きで、とにかく麻雀が好きで、自分の時間をすべて麻雀に費やしてきたからこそ残せた成績に違いない。持ち前のゲームセンスと圧倒的勉強量が結果に表れた。

勝因ですか?決勝を毎年経験しているので、おそらく経験値がすごいスピードで貯まってるとは思います。雀力があって決勝未経験な人と、あんまり上手じゃないけど決勝を経験している人って、きっと決勝での戦い方が全然違う。過去の決勝の経験が武器になると思ってるので、それでいうと私には経験が良いように作用してくれたのかもしれません。

これだけ優勝しても、傲慢になることもなく冷静に勝因を分析している。あの辛い地獄のような日々を乗り越えたからこそ今の成功に繋がっているのかもしれない。筆者が素直に感服していると、でも最高位戦に入ったあと、すごくつらかったことがあるんです、と小宮が口を開いた。

 

プリンセス(Princess of the year 2020)を優勝したちょっと後に大好きだったお父さんが癌で亡くなったんです。癌が見つかったのはそれより3年くらい前で、ずっと闘病してたんですけど2020年の10月に余命がもう幾ばくも無いって知らせを受けて急いで顔を見に病院に行きました。顔を見てすぐ、ああもう長くないな、もうだめだなってわかっちゃいました。医学の知識があったからだと思います。それで決まってた仕事を全部キャンセルして最期までお父さんのそばにいることにしました。どうしても話したいことがあって。

 うつで実家で生活していた頃、眠れなくてよく深夜にお父さんと2人でF1中継を見てたんです。私はF1には興味はなかったんですけど、お父さんと一緒にいたいから隣でテレビを見ていて。ある時なんでかわかんないけど「お父さんは生まれ変わっても同じ人生がいい?」って聞いたんです。そしたら「お母さんのことも大好きだし、子供たちは2人とも可愛いし、お父さんはやっぱりまたお父さんの人生をやりたいなあ」って言ってくれて。

 

躁うつ病の小宮が処方薬を大量摂取しないよう、当時は父親が薬を管理していたそうだ。そんなボロボロの娘に対し、また君の父親になりたいと話したというのだ。小宮はぽろぽろと大粒の涙を流しながら、少しづつ続きを話してくれた。

 

でもそれを聞いたとき、「わたしはこんなつらい人生もう二度と嫌だ」って言っちゃったんですよ。それを元気になってからも何年もずっと後悔していて…お父さんが亡くなるかもしれない今、ちゃんと謝らないといけないって思いました。

お母さんとお兄ちゃんが席を外してくれて、病室に2人だけになったときに「あの時あんなこと言ってごめんね、私は生まれ変わってもまたもう一度お父さんの子どもとして生まれたいんだよ」ってようやく言えました。そうしたら「うん、知ってるよ」って返してくれて。その日の夕方、父は亡くなりました。

 「私の要素のほとんどがお父さんです」と話すほどに大好きだった父の死。小宮にとっては人生最大の悲劇だった。

 

でもずっと後悔していたことも話せたし、仕事をキャンセルして各所には本当に迷惑をかけちゃったんですけど、お父さんの最期を一緒に過ごせて良かったです。あの時、自分を信じて決断できて本当によかった。

 

小宮が今回このエピソードを話してくれたのは父親への大きな愛ゆえだけでなく、人生においての大事な決断は後悔するなというメッセージが込められているように筆者は感じた。 

私、自分の承認を他者に委ねないように生きているんです。自己愛や自己承認って人間は誰しも持っている当たり前のものなんですけど、他人の評価を過剰に意識してしまったりすると自己の承認もブレちゃうと思うんですよね。だから、私は私の評価をきちんと自分でしてあげたい。自分のことを認められる人間でいたいなって思います。

 

ああ、この人は強いな。そう思った。

小学生の頃のイジメ、20代で発症した躁うつ病、最愛の父の死。
壮絶な経験が、ここまで人間の幹を太く、強く変えていけるものなのか。だとしたらこの幹はもう崩れたり折れたりすることもなさそうだ。

 

今はもうあの頃のような症状が出ることはないのだろうか。

麻雀を打ってると集中しないといけないから、余計なことを考えなくて済むというか…余計なことを考えている暇がないせいで症状が落ち着いたのかもしれないです。麻雀ができていなかったら今何をしてるのか、生きているかもわからないですね。

麻雀に命を救われたから、私は麻雀からは一生離れられないんです。

 

今の一番大きな目標は「世界で一番強い麻雀プロになる」こと。

ファンの人に認めてもらえるのももちろんうれしいですけど、何よりもまず自分が納得できる強さを持つ人間になりたい。強さにこだわって、ずっと人生を麻雀と生きていきたいです。

 

 

10代で持てなかった野望を抱き、20代で失った自由と青春を手に入れた小宮悠は今、無敵である。

 

 

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