コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.10】吉田光太 ~カリスマと呼ばれたドラゴンの輝きと挫折~【輝き編】

(インタビュー・執筆:浅見真紀)

 

13年前。とある勉強会で新人プロが上家からリーチを受けていた。

  ドラ

リーチ者が切ったをカンチャンで仕掛け、通っていないを勝負。カンの8000点テンパイに受けて押した。

その仕掛けを後ろで見ていた吉田光太は新人にこう問いかけた。

「ねえ、そのカンチャンに愛はあるの?」

待ちの良し悪しについて議論を交わすことはあれど、愛の有無について考えたことなどあるだろうか。この手は打点も十分で、愛があるといえばある。しかし、待ちはカンチャンで枚数も少ないと考えると、愛がないとも言える。いや、そもそも愛とはなんだ。

 

また別の日、白ポッチがリーチ後オールマイティーになるルールで卓を囲んでいた吉田は、カンチャン待ちでリーチをかけた。だが、待ち牌は既に暗カンされている。いわゆる純カラ(=待ち牌がヤマに残っていない)だ。流局し、白ポッチがあるもんねと同卓者に言われると、「白ポッチは正規のツモ牌じゃないからアガらずに切るよ。ツモの輝きが失われるからね」と答えた吉田。
では、なぜリーチなのか。そもそもツモの輝きとは。

 

エピソードを挙げればキリがない。吉田語録とまで言われるその数々のフレーズを吉田チルドレンたちが言い伝え、ある種の伝説にすらなっている。

 

吉田光太(よしだ こうた)

流れ否定派が急増してきた麻雀の変革期にあって、流れ重視の麻雀と独特なキャラクターでかつては若手のカリスマだった男。日本プロ麻雀協会(以下、プロ協会)に入会するも2011年に最高位戦日本プロ麻雀協会(以下、最高位戦)へ移籍し、現在は最高位戦B1リーグで戦っている。

最高位戦選手ページ https://saikouisen.com/members/yoshida-kota/

Twitter https://twitter.com/koutayoshida

 

吉田の今日までの道のりは、ただ麻雀に出会い魅了されてプロ道を選んだ、というようなシンプルなものではない。彼の経営する麻雀店で5年半勤務していた私は嘘か真かわからないような話を、それはもうたくさん聞いてきた。今回改めて吉田の歩んできた軌跡を紐解くことになったが、山あり谷ありという表現が陳腐に思えるほどにその軌跡にはありとあらゆる事件が散りばめられていた。

 

よしだこうた8歳、麻雀との出会いは父親に連れられて行った純喫茶

1977年7月、吉田は群馬県高崎市にて生を受ける。

 

8歳くらいの頃はよく日曜日に親父が漫画雑誌がたくさん置いてある純喫茶に連れて行ってくれたんだよね。そこでターミネーターとか北斗の拳のケンシロウが麻雀を打ってる漫画に出会って。麻雀は全然わからなかったけどギャグが面白くて夢中で読んだ。それが片山まさゆき先生のぎゅんぶらあ自己中心派だったんだよね。片山先生は当時ファミコン通信大トロ倶楽部っていう『哭きの竜』とかのパロディ漫画も描いていてそれも好きで。それで麻雀に興味を持ち始めた。

麻雀の入り口は漫画だった。そして、中学生になると麻雀牌に触れる。

中学の頃近代麻雀を読み始めてたんだけど、「ツカン!ツカン!」(片山まさゆき作『スーパーヅカンのセリフ)って言いながら友達の家で手積み麻雀してたかな。ツモ番も逆回りだったり点数も間違ってたりしたと思うけどね。麻雀面白いからやろうよってクラスの友達に普及してるような子だった。背も小さくてイガグリ坊主だったから、女の子との青春とかモテたりだとかは全然なかった

現在の吉田はスタイリッシュで他人を寄せ付けないような雰囲気すら纏っているが、当時の話を聞くと意外にも少年らしさを感じ、非常に微笑ましい。どうやら吉田は高校デビューだったようだ。

北関東のブルジョアがみんなそこに集まる、ボンボンが行く私立高校に行ったんだよね。俺はボンボンじゃなかったんだけど。麻雀、バンド、夜遊びとにかく周りと遊ぶのが楽しすぎて高校に入って勉強は一切やらなくなった。中学までは勉強もできる方だったけど赤点ばかり取るようになっちゃったな。近代麻雀』は高校でもずっと読んでいて、来賀友志先生、馬場裕一さん、土井泰昭さんの原作の大ファンだった。作品を見ただけで誰が原作かわかるくらいにね。名作はたくさんあったけど一番好きだったのは阿佐田哲也さん原作麻雀放浪記当時は今みたいにネット販売がなかったから、都内に行ってありとあらゆる古本屋まわりまくって原作の小説を探したよね。新しい作品を見つけたときの感動たるやすごかった。20歳までに阿佐田さんの小説30タイトルくらいの全作品は読んだし、今でも読み返してる。

吉田は『吉田光太の横向き激闘記』というブログを15年以上書き続けている。クセのある登場人物たちが繰り広げる麻雀を介したストーリーが描かれたブログで、ひとまとまりのストーリーが完結するまでは文末が「lead to the next chapter..」という独特の言葉で終わって次回に続き、完結回は「fin.」で終わる。自戦記や戦術について書かれているものが多い麻雀ブログの中で、吉田の創作はひと際異彩を放っている。文章の書き方に阿佐田哲也氏の影響も受けているのだろうか

そうだね、阿佐田作品は牌活字を使って麻雀の奥深さとギャンブラーのはかなさを描いていてあとがきでムツゴロウさん(畑正憲・プロ連盟)が「トイレに立つ間すらも惜しい!」って評していたんだけど、本当にそれくらい面白い麻雀話ばかりなんだよね。「麻雀と人生は6勝4敗がベストバランス」って説いていたのも印象的だった。こういう素晴らしい作品を俺の世代でも知らない人が多いんだから、もっと若い世代に伝えていきたいなと思ってブログを書き始めた。

 

憑りつかれたような8連勝。牌が吉田を選んだ

漫画、小説、そして友人との手積み麻雀。みるみる麻雀にのめりこんでいった吉田少年。自然の成り行きで訪れたフリー麻雀店でついに運命が動き出した。

18歳のころ、友人に連れられて初めてフリーに行ったらいきなり8連勝して、その後2着を1回、更に5連勝して「これは面白いぞ」と。今思うとあの日は異常なツキだった。8連勝なんて後にも先にもあの日しかしたことないからね。ただ、あの日、本当にツイてたのかそうじゃないかはその後の俺を見ていればわかるよね?

なるほど、わからない。目を点にした私に向けて、吉田はこう続けた。

牌が吉田を選んだ。あの日がなければ今この道を選んでいなかったはずだから、俺は本当にツイてた。フリーデビューした人はみんな感じることだと思うけど、あのスピード感やドラマ、赤牌が手中で舞う魅力に憑りつかれて18歳で麻雀で生きていくって決めた。

その後も負けを味わうことなく大人たちをなぎ倒していった吉田は、麻雀の海に溺れていった。まずは地元群馬の麻雀店でスタッフとしてアルバイトを始める。

それからの5年間は頭のてっぺんからつま先まで全部麻雀でできている様な生活だった。とにかく麻雀だけ打ってひたすら勝ってたから群馬ナンバーワン」とか「チャンプって呼ばれてたよ。その頃は特にサラリーマンや学生の人たちに負けたくなくてあの人らに同テン引き負けたら死んでやるって思ってた。向こうは趣味でやっていこっちはコレ(麻雀)で生きてるんだから、そりゃそうでしょ。

同じ待ちを引き負けることなんていくらでもあると思うが、吉田の話を聞いていると本当に一度も引き負けなかったのではないかという気にすらなってくる。ところが、確固とした自信と誇りを持ち始めた吉田にも、あるとき自分の生活に疑問が湧いてきた。

先輩からはかわいがられるし、生活状況も悪くないし毎日楽しいんだけどなんかちょっと違うなと。麻雀をもっと突き詰めたい、大切にしたいっていう思いがすごく強くて、麻雀以外の生活をちゃんとしてないと胸を張って麻雀が打てないんじゃないかと思うようになってきて。自分で学費を稼いで勉強して、その上で麻雀打ってるなら誰にも文句は言えないはずだし、堂々としていられると思って独学で勉強を始めた。

サラリーマンや学生にあれだけ負けたくなかった吉田が、麻雀以外の勉強を始めることになるとは本人も想像していなかっただろう。麻雀を愛すためのベースとして大学進学、そして法学部入学を目指すことになった。

でも勉強なんて何年もしていなかったし、365日夜型の麻雀漬けで自堕落な生活を続けてた。そもそも勉強嫌いだしどうしようかと考えて。法学部だったらスタートラインはみんな一緒だって気づいて法学部を選んだんだよね。通信の中央大学法学部と群馬の法律専門学校に行って、大宮のLECも行ってた時期があるから一番忙しいときはトリプルスクールだった。電車の中とかで寝れるだけ寝て、学費は全部自分で稼がなきゃいけないから、空いてる時間はずっと麻雀店で働いてた。すごい生活してたけど4年で300単位全部とって卒業したよ。

さらっと話してはいるが、過酷な生活だったのは容易に想像できる。麻雀を打つためだというのなら大学一校だけで十分名目は保たれる様にも思えるが、やはり中途半端が許せなかったのだろう。手を付けるなら全て全力で。今の吉田を見ていても変わらない部分だ。

ただこの頃、体だけじゃなくて心も脳もぶっ壊れる寸前まで麻雀を打っちゃってたから、限界が近いかもって感じてた。今は不眠不休で狂人みたいな努力を続けていられてるけど5年後や10年後にも同じことはできないだろうなと。かといって中途半端に麻雀を打つのも許せなかった。狂ったように打ちすぎて、ナイフみたいな鋭い人格になってた。ナイフって他人だけじゃなくて自分の心も傷つけてしまうんだよねそれでいっそのこともう麻雀を一切やめてしまおうって決めてしまった。

突然の「ナイフ」登場に読者のみなさんも驚いたことだろう。吉田と話していると、時折このような尖ったワードが登場する。ぜひ慣れていただきたい。己の中のナイフを日々研ぎ澄まし、結局己さえも傷つけてしまった吉田は、麻雀を捨てるという苦渋の決断をする。

 

麻雀のない生活、夢が終わった男の生活

2000年、23歳。麻雀との縁をぷつりと切ってしまった吉田は、無事に大学を卒業し上京。都内にある弁護士事務所で弁護士の補助者として働きだした。

上京してからの普通の生活は今までと違いすぎてびっくりしたね。ご飯を3ちゃんと食べられてゆっくり眠れて、土日はビール飲めて彼女作って。普通の人ってこんなにバラ色の日々を送ってるの?って思った。昼間は弁護士事務所で働いて、夜は資格を取るために予備校いって、という忙しい生活だけど麻雀ばかりやってた頃に比べたらはるかに楽だったかな

ちなみに彼女とはどう出会ったのだろうか。

出会い?俺が路上でひとめぼれして池袋の街で声をかけたの。当時19歳の女子大生で、すごくタイプだった。それも全部ブログに書いてあるんだけど、本当に真紀はブログ読んでないよね

申し訳ない。吉田の恋愛談が読めるのはここだけ(『吉田光太の横向き激闘記』 ※再掲)

さて、麻雀から離れ、サラリーマンとして働きだした吉田。そこからまた麻雀を始めるまでにはどんな経緯があったのだろうか。

普通の日常を過ごして普通の幸せを知ったけどやっぱり一人になると考えちゃうよね、麻雀のことを。友達には「たまに遊びで打てばいいじゃん」なんて言われたけど、絶対に打ちたくなかった。だって5年間の自分の麻雀生活を汚したくないし、もし一度でも麻雀を打っちゃったら遊びじゃ済まないのはわかっていたから。月に1回遊びで打つとか、自分にとって麻雀はそういう軽いものじゃなかったからね。でもやっぱり麻雀のない日常なんて長く続くはずがなかった

一度覚えた高揚感や快感を体が簡単に忘れられるはずがない。麻雀の影が再び吉田にひたひたと近づいてくる。

麻雀を辞めて1年弱くらいたった頃にサッカーのワールドカップがあったんだよね。街中が盛り上がってたけど、これは俺の感動ではないんだよな、みんな他人の感動に便乗してビール飲んでるだけだよなって思いながら見てた。そんな自分にハッとしたよ。もう俺終わったんだ、夢が終わった人間はこの後の人生どうすればいいんだろうって思ってた。しばらく空っぽの日々が続いてたな。でもあるとき、麻雀で人と勝負ができるって実はとっても素敵なことなんじゃないかって思い始めたの。人生で見つけた一番の宝物を俺は放棄してるんじゃないかって。

渇いた体が水分を求めるように、吉田は麻雀を求めていた。そうしてもう一度、麻雀を打つことを自身に許した吉田。麻雀のない生活は1年程で幕を閉じた。

 

開けたことのない扉を開きたい。群馬ナンバーワンが麻雀プロの世界へ

麻雀を再開したとはいえ、仕事を辞めるわけにはいかない。弁護士事務所で働きながら麻雀を打ち続ける生活をしていた頃、とある麻雀オフ会に誘われた。この日がプロ入りのきっかけとなる。

当時はプロ協会の選手とセットをすることもあったんだけど、ずっと羨ましく思ってた。「俺も麻雀を愛する気持ちは負けてないはずだ。でも仕事も勉強もあるし…」ってずっと悶々としてたな。誘われて行ったオフ会で憧れの来賀友志先生にプロの世界を勧められて、受験を決心した。ちょうどその頃「プロ協会にとんでもなく強いやつがいる」って噂を耳にして。実際のスコアも聞いて、それはすごい、その人と勝負してみたいって思って協会を選んだんだよね。それが鈴木達也だった。

プロ試験でもビッグマウスで臨んだのだろうか。わくわくしながら試験での様子を聞いてみた。

面接官は五十嵐さん(五十嵐毅・プロ協会)と梶本さん梶本琢程プロ協会)だったかな。二人にはもちろん「自分群馬ナンバーワンなんで」って伝えたよね。ファッションも大事だと思ってたから、ノーネクタイの私服で行ったのよ。そしたら当然減点されたよね。当時のプロ協会の)試験は実技半荘12回あって40人中ポイント上位13位までが合格だったの、基本的に。筆記で100点取れてても実技が40位だったら不合格なんだよね。で、群馬ナンバーワンの俺、めちゃめちゃイキって臨んだわり実技は17位だった。結果を見て端っこのほうでちっちゃくなってたら実技の内容を加味してもらってなんとか推薦で拾ってもらえたんだけど。ギリギリっていうかギリギリアウトなダサいスタートだったね。

カッコつけて、ナンバーワンを声高に宣言し、本来不合格の17位。吉田のこういうところは本当に愛おしい。最後の最後はちょっとだけカッコ悪いのだ。とにもかくにも、こうして吉田光太の麻雀プロとしての新たな人生がスタートする。その後のプロ生活はまさに順風満帆だった。

 

なんでも勝てるな。プロの世界を全部、俺色に染めてやる

今は数が増えたけど、俺も最初はサラリーマン麻雀プロだった。当時は少なくて、1割もいなかったんじゃないかな。でも協会入って3か月でC3リーグは首位。新人王決勝進出、野口賞決勝進出、最強戦ベスト16…なんでも勝てるなって。野口賞は回決勝に残ってるけど決勝1年目は剛さん(小林剛・μ)に負け、2年目はタッキー(滝沢和典・プロ連盟)に負け。タイトル戦はやっぱりすぐには勝ちきれなかったけどね。

野口賞に関しては馬場裕一氏のブログ『バビィのバカヅキサイクロン』にその詳細が記されているのでこちらも一読していただきたい。入会してすぐその頭角を現した吉田だったが、そうなると今度は麻雀一本の生活にしたいという思いも湧いてきた。

やっぱりタイトル戦で勝ちきれないのが悔しかったんだよね。でも普通に考えたら仕事辞めるなんて無理じゃん。(弁護士の)先生にお世話になっている義理もあるし世間体もあるし、なにより適当にはじめた仕事じゃないから。死ぬ気で勉強して勝ち取った仕事なのに、事務所やめて雀荘で働くのか?何年も続けている司法試験の勉強はどうする?ってまたずっと葛藤。
でも結局
28歳のとき、開けてみたい扉があるのに開けない選択をするのは一生後悔すると思って仕事をやめることにしたあの日、牌は俺を選んでくれたんだから、俺も牌に殉じたいって思った。母親に報告したら「応援するから頑張って」とだけ言われて。後になぜ18で麻雀を選んだときも、弁護士事務所をやめるときも理由聞かなかったの?」って聞いたんだけど「聞いても無駄でしょ。さんざん悩んで迷って決めたことなんだろうから。あなたがおなかの中にいるときから頑固な子だってわかってたよ」って。嬉しいよね、俺も子供ができたら同じように応援したい。俺は小さい人間だから、きっと問いただしちゃうけど。両親は「あなたに何もしてあげられなかった」って未だに気にしてるんだけど、俺からしたら五体満足でこんなにイケメンで天才に産んでもらえて超感謝だけどね。めちゃめちゃ恵まれてるなと思うよ。

自分のことをサラっとイケメンと言ってしまう辺り、吉田は相変わらず吉田なのだが、なにぶんイケメンなのだから仕方がない。弁護士事務所をやめた後はどう動いたのだろうか。

とにかく街で打ちまくって名前をあげてやろうと。いろんなところで麻雀を打って辿り着いたのが渋谷にあったジパングだった。当時店長だった木原さん(木原浩一・プロ協会)に声をかけてもらって期間限定で働いてみることにしたんだよね。そこ園田賢、佐藤崇、坂本大志、中嶋和正、佐藤聖誠、醍醐大、宇野公介らがいた最高位戦のアツい奴らに出会えたの。

10か月程ジパングで働いたあと、自分の店を持ちたいという思いから29歳で六本木に麻雀店を開いた。その後オータムチャレンジカップ(現オータムチャンピオンシップ)優勝、野口賞優勝と立て続けにタイトルを奪取。若手プロのカリスマになりつつあった。

20代でさ、イケメンで協会B1(現A2)リーグで六本木に自分の店を持ってて、タイトル2つ勝って、モンドTVも出ていて、そんなやつなかなかいないでしょ?周りは羨ましかったと思う。未来は明るかったよね。右腕一本でのし上がったから正真正銘のスターだって勘違いしてた。あの日あの時あの場所で、あの人と出会うまでは…

輝きながら意気揚々と当時を語っていた吉田の表情が少し曇った。

 

明日アップ予定の【挫折編】に続く

 

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