(インタビュー・執筆:梶田琴理)
13時に待ち合わせとなっていた取材日の午前、連絡が入った。
すみません。どうしてもA1リーグを観戦してから約束のお店へ向かいたいのですが、お時間の変更をお願いできませんでしょうか。昨日エールとお祝いをくださった先輩にお返しをしたくて。社会人としてどうかと思いますが、ご検討よろしくお願い致します。
もちろん大丈夫です、と返した。11月23日、第45期A1リーグの最終節。丁寧ながらも強い意志が感じられるこのメッセージの送り主は、鈴木優。前日のA2リーグ最終節、自身の手で次期A1リーグへの昇級を掴み取ったばかりの男だ。本当ならば取材時間の変更どころか、一日張り付いて観戦していたいに違いない。
先輩へのお返し―。それも大いにあるだろう。しかし、前日の歓喜の余韻に浸る間もなくA1リーグの観戦に向かった鈴木の目は既に、来年その舞台で戦う相手となる選手と自分自身という構図で見据えていたはずだ。
(写真:最高位戦道場が入っているビルの入口にて)
アマチュア時代、約2000人が参加した『麻雀最強戦』の予選を2年連続で勝ち上がった。『最強戦の申し子』の異名で知られるようになった鈴木。プロ入り後の2012年には、同タイトル戦の全日本プロ予選で並み居る強豪プロ200人の中で優勝した。
鈴木には『1秒で見抜くヤバい麻雀心理術』(2017年・竹書房)という著書がある。人の心の動きに着眼点を置いているのは、他の麻雀戦術本とは少々毛色が違う。タイトルからは何となく、メンタリストのDaiGoさんを想起した。いずれも甘いマスクの持ち主であることも関係しているかもしれない。
同書の冒頭にはこう記されている。
「私が麻雀において『他人よりもここが長けています!』と自信を持って言える所は牌理や山読みなどでは全くなく、人の視線や切るまでの間から心理を見抜くことです。」
この一文だけでも、鈴木ワールドに引き込まれるような感覚に陥る。鈴木独自の麻雀観は一体どのようにして培われてきたのか。話を聞いた。
鈴木 優(すずき ゆう)
最高位戦選手ページ→ https://saikouisen.com/members/suzuki-yu/
Twitter→ @yu_suzuki_ABC
人間関係がうまくいかず、ずっと一人だった学生時代
鈴木は愛知県豊橋市で生まれ育った。
サッカーを小1ぐらいからずっとやってました。外で遊ぶのがすごく好きで、運動神経は良かったです。夢はサッカー選手でしたね。中学校に上がる時に、家から一番近い学校にサッカー部がなかったんですよ。自転車でだいぶ遠いサッカー部のある学校に行くか迷ったんですけど、日曜日に電車で1時間くらいの名古屋のサッカークラブに行けばいいやっていう感じで近くの学校に入りました。そこではハンドボール部に入ったんですが、土日も部活動があって大変だったので、サッカーは行けなくなってやめてしまいました。大好きだったので悔いが残ります。
スポーツ万能な少年時代。ただ、中学以降、人間関係の面でうまくいかないこともあった。
中学のハンドボール部は、正直あまり楽しい思い出がないですね。先輩後輩とかの人間関係が得意じゃなくて。嫌な奴は嫌だ、許せないことは許せないっていう感じだったんで、上の人たちからは良く見られてなかったです。1、2年生のときには行くのが嫌になるくらい苦痛でした。
両親が地元トップクラスの高校出身で、小さい頃から厳しかったんですね。習い事は習字、絵、そろばん、暗算とかやってて、いろいろお金をかけてもらってたし、門限を破ったらぶん殴られました。テストは90点だと見せられなくて、100点で当たり前みたいな。それで、小学校の頃は期待に応えようと頑張っていたんですけど、中学でちょっと踏み外しましたね。提出物を出さなかったりとか遅刻したりとか。勉強するのは好きでテストの順位はだいたい学年で1桁だったんですけど、生活態度が良くなかったので内申点は良い点をもらえなかった。それで両親が望んでいた高校には行けなくて、そこそこの高校に進学しました。
高校に入ってからも学校には行ってなかったですね、あんまり。卒業はしたんですけど。人間関係がうまくできなくて苦痛でした。サッカー部に入ったんですけど、上級生が部室でタバコ吸ってたり暴力を振るったりとかで、すぐ嫌になりました。なんなんですかね、本当に。周りに合う人もいなくて、ずっと一人でした。ウォークマンでGLAYとかL’Arc~en~Cielとかビジュアル系バンドの音楽を聴いていました。
思春期は誰しも鬱屈とした思いを抱えたりするものだろうが、鈴木は人一倍感受性が強そうだ。家庭でも学校でも、常に気を張っていたように聞き受けられた。その分、他人の心の動きに敏感で、それが麻雀のスタイルにも繋がっているのかもしれない。
麻雀はやらないと決めていた
麻雀を始めたきっかけは、高校の卒業旅行だそうだ。
5人部屋で、僕以外の4人がジャラジャラと麻雀をしてたんですね。でも僕は、父親が遊びやギャンブルなどでお金を使いすぎていて、母親がいつも家で泣いていたんで、良いイメージがなかった麻雀はやらないって決めていたんです。だから一人でゲームをやっていたんですけど、4人のうち1人が寝てしまって、入ってよと言われたんで、そこで初めて麻雀をしました。井出洋介さんの初心者本を10分読んで、対々和と国士無双だけ覚えてやったんですけど、まあ負けるじゃないですか。訳も分からず負けて、終わった後「1週間後にまたこの4人でやろう」ってなったんです。僕は本当に負けず嫌いだったんで、麻雀の本を買って役と点数とルールを覚えて、ファミコンのゲームをやりました。しばらく話してなかった父親にも「麻雀を教えてほしいんだけど」と言ったら、倉庫から麻雀牌を持ってきてくれて、「こんなの覚えん方がいいぞ」と言いながら2人麻雀をやってくれたんですよね。で、一週間後の麻雀はすごい勝ったんです。僕は飽き性なんですけど、麻雀はリベンジしてはい終わりってならなかったんですよね。麻雀面白いなって思い始めました。
それからフリー雀荘にデビューするまでは長くかからなかった。アルバイトが同じだった人の家に自動卓が置いてあり、麻雀好きたちのたまり場になっていた。鈴木はどっぷりとのめり込み、仲間から「そんなに強いんだからフリー雀荘に行ってみればいいじゃない」と言われるようになった。そこで、豊橋市内のフリー雀荘に足を踏み入れた。
フリーとは何ぞやって全然知らないまま、初めて行きました。めちゃめちゃ怖い所でした。タバコの煙がもわーっとしていてちょっと暗くて。先ヅモありのお店で、打牌のスピードに圧倒されました。自分がツモってちょっと考えていると、自分の上家まで全員ツモってパンパンと切られていてまた自分のツモ番、みたいな。4半荘打ったんですけど、3半荘で1回もアガれなくて。4半荘目に北家で赤含みのチー、ポンと何か3副露してバックのシャンポン待ちになって、他家からリーチが入った時に、別のお客さんが「兄ちゃん一回もアガってないからアガらしてやるわ」ってを切って、僕は初めて2000点をアガったんです。完全に見下されたような感じでものすごく悔しかった。そこに次の日から通うことになりましたね。
怖い思いをしたというのに、翌日またフリー雀荘に行こうという気概に驚かされる。取材中繰り返し「負けず嫌いなので」と口をついた鈴木の中では、怖さよりも悔しさの方が上回っていたのだろう。
一応地元の大学に入学したんですけど、雀荘に入り浸って授業は受けていなくて、籍も1年あったかないかぐらいでした。単位は1個も取ってないです。気付いたら雀荘でメンバーをしていました。週6日、1日12時間勤務で、月400半荘は必ず打っていた。店長がすごくしっかりしている人で、麻雀も接客も色々教えてもらいました。牌の扱いが綺麗になるから卓掃はたくさんしなさいとか、麻雀をたくさん打ってたくさん見なさいとか。だいぶ成績が残るようになってくると打牌に制限を設けられました。印象に残っているのは「七対子は字牌でリーチをするな」という決まりですね。字牌でなく数牌で待ちを決めるには、どの牌が使われていなさそうか、手から余りそうかを考えなければいけない。テンパイする前から一生懸命考えていましたね。あと、卓に入る前に「2314」と書かれたメモを渡されて「並びをつくっておいで」と言われたこともありました。自分が2着、調子の良くない対面を1着、逆に連勝している上家を4着にという意味です。お客様に長く打ってもらうためですね。4人の着順をコントロールするというのはなかなか簡単ではないですけど。今となっては、そういうお店都合の規制で店員に打牌制限を課すのはゲーム性も歪むし、麻雀を純粋に楽しんでもらうためのサービス業としてはどうかと思っていますけど、色々と修業させてもらいました。
なぜそこまで麻雀に惹きつけられたのか。
ずっと探求できるところですかね。同じ局面って二度とこないし、終わりがないじゃないですか。麻雀に出会えて良かったと思います。
豊橋初のプロ、大海を知る
最高位戦には、第27期(2002年)に入会した。腕試しのつもりで受験したそうだ。
僕が受験した1年前に、豊橋で麻雀が強いと言われていた4人が最高位戦のプロ試験を受けに行って、全員不合格だったんです。それで来年自分も受けようって思って、『近代麻雀』にプロ試験の要項が載るのを待っていて、募集が始まるとすぐに申し込みました。4人は「俺たちでもダメだったんだから合格できないよ」って言ってたんですけどね。当たり前ですが勉強して行ったんで、筆記試験は良い成績で、合格することができました。豊橋初の麻雀プロということでした。19歳か20歳の頃だったと思います。それから半年~1年ぐらい、リーグ戦のたびに東京に通ってました。田舎にいてプロの世界は全然知らなかったんで、強い人っているのかな?って思っていました。同期には太田さん(太田安紀)と山内さん(山内雄史)がいて、この2人は「強い、敵わないかも」って思いました。世界は広いなって。
その後、豊橋の雀荘を辞めて上京することになる。
沖野さん(沖野立矢)が店長をしていた高田馬場の『もでるず』っていうお店を紹介してくれました。そこで根本さん(根本佳織)とか茅森さん(茅森早香)と知り合い、一緒に働いていました。お店は明るくて広くて、マナーの良くないお客様をそのままにしておかないし、東京の雀荘は全然違うなと思いました。亡くなった飯田さん(飯田正人)が週に1回ゲストで来ていて、その日には誠一さん(近藤誠一)も朝から晩まで打ってましたね。飯田さんは温厚でどんな質問にもニコニコと答えてくれて、引き寄せられるような魅力がありました。
多くの最高位戦選手との出会いで、自身の麻雀を基本から見直すきっかけになったという。
同時に、地元にマナーの良い雀荘をつくりたいという思いが芽生えた。沖野が店を辞めたタイミングで鈴木も一緒に辞め、開業資金を貯め始めた。程なくしてまとまった額の貯金ができると、2006年9月、豊橋で念願の『麻雀 ばとるふぃ~るど』オープンに漕ぎつけた。
開業にあたって最高位戦を一度退会しました。当時は経営のことしか考えてなかったですね。プライベートで麻雀する時間はもちろん、寝る時間もないぐらいで、フラフラになるまで働いてました。
(ばとるふぃ~るどで働く現在の鈴木)
もう一度、プレイヤーとして第一線へ
数年後、経営よりもプレイヤーとして麻雀に復帰したいと思う出来事があった。
とある女流プロから「麻雀を教えてください」とメッセージが届き、彼女が店で働き始めたのだ。
その子は本当に麻雀が大好きで、正直上手くなかったけど一生懸命だった。麻雀を始めてまだ1年とかだったと思うんですけど。僕が麻雀を打つ時に後ろ見しては必ずメモを取っていて、勤務が終わった後で質問してきました。週6日ペースで働いていましたが、休みの日もセットで静岡や名古屋に行っていましたね。思うようにいかなくて泣いたりもあったけど、努力をすごくしていました。
その女流プロとは、今やMリーガーの魚谷侑未(日本プロ麻雀連盟)。
魚谷の真剣な姿に刺激を受けて、鈴木自身もプロへの復帰を考えるようになった。退会後9年を経て、第36期(2011年)で最高位戦に再入会することとなった。片道1時間半~2時間かけて通うのは大変だったが、鈴木の中には既に「生涯最高位戦で頑張ろう」という覚悟があった。
復帰して思ったのは、練習セットをやらないとダメということですね。リーグ戦でだけ最高位戦ルールを打って、しかも寝不足で行って、みたいなのは勝てるわけがないです。昇級はトントン拍子だったんですけど、上のリーグで練習しないで昇級しよう、最高位になろうなんていうのは舐めてますね。知れば知るほど、A1リーグの壁は厚いなと思いました。
中でも悔しい思いをした日があった。B2リーグ(現B1リーグ)の最終節。昇級はほぼ堅いというポイントを持っていたところから、4着4着3着4着と転げ落ちて残留となってしまった。
4ラス引かなきゃいいと思ってたんですけど、普段通りの麻雀が全く打てなくて。放銃は嫌だからと引き気味に打って、自分のアガリが全然とれないんですよね。安全に通過しようとしてリスクを負わずに負けて、1年をふいにした。その日は放心状態で打ち上げに行けませんでした。「もうあんな惨めな麻雀は二度と打たないぞ」と本当に心に誓いました。今では、その時たまたま勝って昇級しなくて良かったなって思います。昨日とかもその時の経験が活きました。
取材前日の11月22日、A2リーグ最終節。A1への昇級枠は3名で、鈴木は219.5ポイントの暫定3位で迎えた。4位選手とは約75ポイント差。安泰ではないものの、小さくはないリードを持っていた。
当日朝、心境をこのようにツイートをした鈴木。壁であり目標であったA1リーグへの扉の前に立ち、並々ならぬ思いがあっただろう。
対局中の鈴木は射るような目つきだった。河と相手の顔を見て、一つの情報も漏らすまいとしている。
しかし厳しい展開が続き、3戦目まで4着3着4着。最終戦を前にして4位選手との差は約45ポイント差に縮まっていた。ただ、以前と違い、焦りはなかった。3回戦後のインターバルで、観戦していた筆者に柔和な顔で頭を下げたその姿には、余裕すら感じられた。
前に出て戦いたかったんですけど、なかなか手材料がこなくて、斬る間合いに行く前に攻撃が飛んでくるみたいな。我慢が多かったですね。3戦目が終わって最終戦までの間は、これまでのことを振り返っていました。お店には負担をかけっぱなしだったけど自分の麻雀を優先してやれることはやってきたから、最終戦は最高の麻雀を打とう。追い詰められてもやり切るというか、この麻雀で負けたなら自分の番ではなかったんだって終わった後に思えるように、と臨みました。
全身全霊で戦い抜いた最終戦、見事にトップを取り、A1リーグへの昇級を手中にした。
生きているうちにA1リーグに上がれるとは。すごく嬉しいです。たとえ残留になったとしても、打ち上げには行くぞって決めていました。昇級した人におめでとうございますってちゃんと言わなきゃダメだなって。最高位戦って本当にいい人が多いし麻雀に熱い人が多いイメージ。本当に最高位戦好きです、僕。
対局中の鋭い眼光は消え去り、顔をほころばせた。
(次期A1リーグへの昇級を決めた3名。左から竹内元太、石田時敬、鈴木優)
そして翌日、冒頭のA1リーグ最終節。お礼を伝えたかった相手というのが、村上淳だ。
ある時の最高位戦Classic本戦、途中敗退があるシステムで、僕が次に進むにはトップか大きめの2着かという条件でした。しかし、ボーダーには到底届かず終局。勝って翌日に進むために泊まるつもりで持ってきた大きなカバンに荷物をまとめ、立会人の村上さんに「お先に失礼します」と告げて会場を出ようとしました。すると、「ダメだったの?まだ全卓終わってないよ。役満が続けて出るかもしれないじゃん」と厳しい表情でおっしゃいました。村上さんが、まだ残れる可能性があると思って発した言葉ではない事はすぐに分かりました。僕はハッとして、自分の態度や行動がとても恥ずかしくなり、全ての対局を見届けて会場を後にしました。麻雀の内容だけでなく、最高位戦選手としての立ち振る舞いなども厳しく教えてくれる偉大な先輩です。どちらもしっかりと後輩に伝えていきたいと思います。
A2リーグ最終節の前後にも村上が応援と祝福のメッセージを届けてくれ、それに対して感謝を伝えたかったそうだ。
取材中、「一人が好きで、友情とかないと思っていました。小、中、高校で一緒だった人の連絡先は誰も知らないし。人間関係は損得しかないと思ってた」と語った鈴木。今でもそうなのだろうか。そこまで踏み込んで尋ねることはできなかった。だが、村上への感謝を律儀に行動で示す姿や、「東海の後輩やアマチュアの方もたくさんお祝いメッセージをくれました」と目を細めたこと、そして最高位戦が好きだと話す様子からは、人のつながりを大切にしていると感じられた。
現在は勉強会、セット、私設リーグなどで東へ西へと飛び回り、自身のプレイヤーとしての活動に100%振り切っているという。東海支部長を務め、後輩の育成にも力を注ぐ。
今、麻雀人生の中で一番モチベーションが高いですね。「今が一番強い」というのを一日一日更新したい。昔はたまたまでいいから勝ちたいって思ってましたけど、今は「鈴木の内容が良かった」って言ってもらった方がいい。A1リーグの選手はそれぞれいろんな武器を持っているし、あれだけ強くてもまだ勉強している。努力しなければ追いつけるわけがないですよね。
A1リーグを観戦し、肌で感じた心境を尋ねると、
わくわくする。でも(自分の実力が)足りないですね、まだまだ。今年以上にしっかり準備して、心技体整えて開幕を迎えたいです。
39歳。次なる目標は、最高位決定戦に残ることと、タイトルを良い内容で取ることだ。
元・一匹狼は、現・東海の雄。期待と応援を追い風に、自らの道を進む。