(インタビュー・執筆:鈴木聡一郎)
「強いと思う選手は誰か?」
どこの居酒屋だったか、いつものような質問がどこからともなくふんわり放たれた。これに対して誰かが言った。
「こういうときってみんな水巻さん(水巻渉)挙げるじゃん。水巻さんは確かに強いけどさ、水巻さんって言っとけばうまいみたいな意識少しはあるんじゃない?だから水巻さんって答えるのは少しうまぶりに見えちゃうんだよね、おれは」
面白いなと思った。
言われてみれば、この手の質問に対して水巻と答える選手は多い。実際に強いし、とにかく隙がない印象だ。多くの選手から高評価を受けるのも当然と言える。
一方で、上記の指摘は一理あるのではないかとも思った。そこで、私はそのときからこう答えることにしている。
「いっしー、だね」
石田 時敬(いしだ ときたか)
最高位戦選手ページ→ https://saikouisen.com/members/ishida-tokitaka/
Twitter→ @tokitaka0
水巻同様、団体問わず誰からも強いという評価しか聞いたことがなく、魔境と言われるA2リーグで毎年のように昇級争いを演じている。
そんな魔境の番人、石田のルーツを探る。
9月末の雨の日、塚田美紀がカウンターに立つ麻雀BAR GardEnに、仕事終わりの石田がやってきた。
いつも通り気が抜けた感じだが、インタビューされることなど初めてなのだろう、少し緊張した面持ちでこちらを向く。BARでお互いにウーロン茶というのも緊張を加速させているのかもしれない。
7人兄弟、お寺出身
石田は千葉県千葉市生まれだが、3歳で神奈川県平塚市へ引っ越すこととなる。
親父が平塚のお寺の三男だったんだよね。普通こういうのって長男が継ぐと思うんだけど、なぜか親父が寺を継ぐことになって平塚に引っ越した。お寺の敷地内に家があってお寺に住んでる感じだから、土日は鐘の「ゴーン」って音で1日が始まって、親父と一緒にお経読んでたね。
実家がお寺とは、なかなか珍しい。しかし、家族構成はもっと珍しかった。
7人兄弟なんだよね。姉、姉、兄、姉、おれ、弟、弟で、7人が12年の中に入ってる。おれは次男だからおそらく長男の兄貴がお寺を継ぐとは思ってたんだけど、小学校高学年になると檀家回りとかお寺の手伝いしてたね。黒い袈裟着て檀家さんの家でお経読んで帰ってくるって感じで。
最終的には兄貴が大学出て本山に修行にいってくれたから、おれは継がなくてよくなったんだよね。お寺の住職って、本山に1年こもらないと資格取れないんだけど、思春期の男が1年間山にこもるのは無理でしょ。本山にこもる資格ってのもあって、一応そこまでは持ってるんだけど、兄貴がいってくれたからおれはいかなくて済んだね。
こうしてお寺を手伝いながら成長していった石田は、単位ギリギリで高校を卒業し、浪人期間を経て筑波大学に入学する。
筑波受かったのはラッキーだった。筑波って学部名が特殊で、おれは第2学群人間学類ってとこに受かったんだけど、心理学とかそういうのもやる文系と理系の真ん中ぐらいの学部だね。他の大学でいう人間科学部みたいな感じかな。筑波って、入学すると9割の新入生が大学の中にある宿舎に入るんだよね。おれも実家を離れて宿舎に入った。
実家を離れて宿舎暮らしとなった石田。石田が言うところの「山籠もりできない思春期の若者」が実家を出れば、当然あれが待っている。
大学デビューしたよね。高校のときって色恋沙汰はそんなになかったんだけど、大学入って1週間で彼女できたんだよね。学部の新歓があって、そこで知り合った1つ上の先輩と付き合った。この1週間が人生で一番楽しかった。
なぜ髭を生やしてしまったのかと思うほど爽やかである。この爽やかさがあれば、当然のように待っていた色恋沙汰。ただ、これ以上おじさんの恋バナを聞くのも気が進まないため、大学生活全般について聞いてみる。
とにかく大学入って色んなことした。バンドもやったし、飲んだりカラオケしたりとか。合宿免許で免許取ってドライブとか。唯一の青春時代だね。
てっきり麻雀の話が出てくると思っていたので、少し拍子抜けしてしまう。代わりに石田から出てきたのは意外な趣味だった。
麻雀をちゃんと始めたのは高2からだったんだけど、筑波って大学の近くに雀荘がないんだよね。だから麻雀する人もいなくて、大学入ったころは全然打ってなかった。代わりに、ビリヤードにハマってたよ。で、ビリヤード場でバイトすることになるんだけど、時給が600円でさ。この600円って当時でもめちゃめちゃ安くて、当然最低賃金より安いから、「最低賃金より安いけど文句言いません」って念書書かされたもんね、バイト始めるとき。その念書に効果があるのかは知らないけど、こっちとしても練習がタダでできる環境だったから全く問題なかったね。
今の時代ではブラックだのなんだのと騒がれる事案なのだろうか。ただ、石田にとってこのビリヤード場は大好きな場所だった。
ビリヤード場で働いてると、お客さんの相手とかもするんだよね。そこで常連のお客さんと遊んでるうちに、たまたまビリヤード関係で麻雀仲間がみつかって、そこからは麻雀もやるようになった。閉店までビリヤードした後、朝まで麻雀して1日が終わるみたいな感じで。
なかなか順調な大学生活に見えたが、石田は3年生終了時に休学を決断する。
就職するかその他の道に行くのか考えるために休学したんだよね。このまま4年生に突入しちゃうと惰性で就活することになりそうだったから、ちゃんと考えることにした。
と言いながらも、石田はこの1年間をビリヤード場でフルに働きながら過ごした。忙しかっただろうが、考える時間には十分だった。
結局、就職はしないと決めて復学した。だから就活もしなかった。
では、石田はどこに向かって進むことを決めたのだろうか。
雀荘をやりたいと思ったんだよね。ビリヤード場で働いてるとき、仲間が集まってわいわいしてるところが好きだったから、そういう場所を提供したいと思って。
こうして雀荘経営を目指し、大学卒業とともに地元平塚へ。そこで雀荘バイトを始める。
初めは雀荘でバイトすることにしたんだけど、その店のオーナーとも話はついてて、2,3年働いてみて都合が合えばお店譲ってもいいよって言ってくれてたんだよね。
麻雀と私どっちが大事?
しかし、雀荘勤務を始めて半年も経たないうちに大事件が起きる。
簡単に言うと「麻雀と私どっちが大事なの?」ってやつだね。もちろんそんな言い方はされないんだけど、おれにとってはそういうことだった。大学時代から3年付き合ってる彼女がいたんだけど、その子から「いしくんがこのまま麻雀を続けるなら別れないといけない」って言われたんだよね。その子は同級生で社会人2年目だから、会社入って働いてほしい頃合いだったんだろうね。
さて、この問いに対する石田の答えはいかに。
めっちゃ考えたよ。「この子よりいい子がいるんだろうか」とか、ほんとに何回も自問自答した。で、結局その子を選んだ。
石田の結論は、彼女を選び麻雀を辞めるというものだった。
で、『B-ing』(転職雑誌)を買ってきて就職先探したよね。周りを見渡すと同級生でIT系に就職してる人多かったから、おれもIT系に応募した。それがするっと受かったから、雀荘のバイト辞めて就職。会社は渋谷で、実家から通ってたね。その会社に今でも勤めてるから20年同じ会社だね。
その後、麻雀を辞めてまで繋ぎとめた当時の彼女とはどうなったのだろうか。
就職の翌年25歳で2003年に結婚したよ。子供もその年のうちに産まれて。子供かわいかったね。たぶんおれそんなに子供好きじゃないんだよ。他の人の子供でかわいいと思ったことないから。それでもかわいいと思うんだから、自分の子供だけは別なんだろうね。普通に家庭的なお父さんやってた。
子宝にも恵まれ、2007年には第2子も誕生する。
子供はかわいいんだけど、いつからか夫婦仲はうまくいかなくなったんだよね。奥さんに対して大人の対応ができなかった。優しくしてあげられなかったんだよね。それでむこうの心が離れていって、30歳のときに話し合っておれが実家に帰ることにした。
距離を置いたらまた違った感じで話せるかなとも思ったんだけど、こういうのって不思議なもんで、離れてるとどんどん心が通じ合わなくなっていく。電話で何回も口論になるしね。
こうなると終焉までは早い。その年の暮れに離婚が決まった。
子供に自分の名前を見つけてもらうために麻雀プロへ
離婚して、子供に会えないのがとにかく辛かったね。子供には会いたいけど全然会わせてもらえなくて、2度と会えないかもしれないと思ってた。
じゃー、何かでおれのことを子供に見せてあげられないかって考えたんだよね。新聞とかニュースとか何でもいいんだけど、子供が大きくなったときにそういうのでおれの名前を見せられれば、おれが元気に頑張ってることを伝えられるから。
離婚すれども親心は変わらず。子供に会えないのなら見つけてもらおうというのである。
でも、新聞とかニュースとかに載るのって難しいじゃん。色々考えたよ。大学に戻って研究するかとか、今ならYouTuberとかも思いついたのかもしれない。でも、当時やっぱり一番打ち込んできたのは麻雀だったんだよね。麻雀でタイトル獲ればWikipediaとかGoogleとかでおれの名前を検索したとき、子供たちが見つけてくれるかもしれないと思った。
あと、もちろん麻雀を捨てたことに対しては燻ってたしね。それで麻雀プロになろうと思った。
マイナス200ポイントで再試験。そこからどうやって強くなったか
2009年、31歳で最高位戦に入会した石田は、当時の最下リーグC2から選手としてのキャリアをスタートさせる。
全5節で同期の直也(河野直也)と一緒にいきなり200マイナスして、2人で再試験になったんだよね。
当時最高位戦では、最下リーグの下位何名かには再試験が課された。現在では2期連続下位だった場合に課される再試験が、当時は一発再試験だったのである。屈辱の再試験となった石田は、どのように敗戦を捉え、どのように強くなっていったのであろうか。
全然足りてなかったよね、思考も練習も。ずっと赤アリでやってたから、赤ナシの競技麻雀をどう打ったらいいかわからない状態で打ってた。そこで、どうやったらいいかをとにかく考えた。今思えば、最初にマイナス200しといてよかったよ。最初に勝ってたらそこまで考えなかったと思うから。
考え抜いた結果、石田はとある練習会に参加することを決める。
色々調べてたら、社会人リーグっていう練習会があるのを知ったんだよね。麻雀プロ兼会社員の選手が金曜夜に集まって競技ルールで練習する形式だった。参加してたメンツが今思えばすごくて、きよさん(醍醐大)、けーぶん(新井啓文)、けんちゃん(園田賢)、和正(中嶋和正)、武中兄弟(武中真、武中進・日本プロ麻雀協会)とかだね。
あと、まだ最高位戦入る前の木村さん(木村誠)もいて、木村さんが「リーグ戦形式がやりたい!」って言うから、いつからかリーグ戦形式に変わった。これが今の闘翔会に変わっていった感じだね。
闘翔会とは、石田が主宰となって開催している勉強会で、団体問わず10名前後の選手で8節ほどをこなすリーグ戦形式で行われる。自ら主宰となった背景にはどんな意図があったのだろうか。
こういう勉強会ってさ、待っててもなかなか呼ばれないじゃん。特におれみたいな地味な選手は声かかんないよね。だから、呼ばれるの待つより自分で作った方が早いと思って作ったのよ。
なかなか行動的な一面が見えてきた。これは起業家の思考に近いのではないだろうか。ないなら作ってしまえばいい。シンプルだが、なかなか行動に移すのは難しい。では、これまで出てきた勉強会でどのように石田は強くなっていったのだろうか。
社会人リーグでは検討の時間がなかったから、競技麻雀の勝ち方をとにかく肌で感じて覚えていった感じだね。その後、闘翔会で倒牌形式になったら、どう打てばいいのかますますわかってきた。
倒牌形式とは、終局後に全員が倒牌した状態で写真を撮り、半荘終了後にその終局図で振り返りながら検討していくという形式である。終局図は牌譜ほど精密な情報ではないが、ポイントとなる手出しツモ切りは概ね全員が覚えているので検討に大きな支障はないというわけだ。
倒牌形式でみんなの考え聞いてるとさ、考えてることが深いし、なんでそこまで考えられるの!?って思うよね。おれはなんて凡人なんだって思うよ。みんなすごすぎる。そう思わない?
実は私もこの闘翔会に参加しているのだが、トップ選手の思考の深さは本当にすごいなと感じる。だからこそ、自らを凡人と言い切る石田に親近感が湧くし、強い選手は?と問われたときに石田の名前を挙げたくなるのだろう。
検討のときもさ、みんなよく覚えてるなあと思うよ。おれはその瞬間に有利な打牌は何かっていうことに全てを注いで、次の瞬間にはもうその局面のこと忘れてるんだよね。もちろん1半荘分とかなら覚えてること多いけど、1日終わって最初の半荘とかはもう覚えてないね。写真見せられて説明されれば思い出すけど。
麻雀の内容をあまり覚えていられない読者の方もいるだろう。ただ、強者の中にも、みなさんと同じように覚えていられない選手もいるというのは、なんだか少し勇気が湧いてくるのではないだろうか。
だってさ、終局したら特に覚えてる必要もないじゃん。もっと言うと、1巡前の思考すら覚えてる必要ないと思うんだよね。だからおれはその一瞬が終わったら、次の一瞬のために脳のリソースを全集中させる方がいいと思うのよ。とにかく忘れて次に集中。怪物たちに普通のおじさんが勝とうって言うんだから、それぐらいしないと無理だと思うのよ。
ではその普通のおじさんが怪物たちと戦うために、どのようなことをしているのだろうか。
読みとか全然できないんで、強い人たちと勉強会とかをやっていく中で勝つためにどうやったらいいのかを考え続けたし、本当に色々やってみた。だから、基本に忠実ではないと思う。
1つ挙げれば、「大損しない範囲で逆を打てるときは逆を打っておく」っていうのはあるかな。少しでも情報を絞らせないって意味ね。例えば、第1打にとどっち切るかで持ってるのにから切ってみたり、ホンイツだけど他の色のドラ周りを引っ張ってみたり。
あと、同じようなので、役牌シャンポンリーチできそうなときには第1打に役牌から切ってみたりっていうのもあるかな。
そう言うと、瞬時に石田が牌姿を挙げて説明を始めた。
例えば、こんなやつ。
ドラ 東1局南家1巡目
こんな配牌だったら第1打にじゃなくを切る感じだね。が重なってもホンイツにしないし、打点があんまり上がらない。それならを先に打って役牌シャンポンリーチになったときに少しでもが出やすい河にした方がいいと思うんだよね。役牌先切りも兼ねて。
怪物たちがストレートに読めるような情報を極力出さないようにするという思考。何やら日本人の気質として、応援したくなってくるキャラクターだ。
みんな天才なんだもん。おれはさ、世の中のサラリーマン雀士の人たちに一番近い存在だと思うのよ。麻雀とは関係ない仕事してるサラリーマン選手って、今のA2ではおれだけだと思うし、A1では中嶋だけだよね。そんなみなさんと同じようなおれが魔境の鬼どもと戦ってる姿を見てほしいのよ。そういうの見てちょっとでも勇気あげられたりできたらいいなって思うしね。
現在A2リーグ10節が終わって残り2節。石田は、今年もA1リーグに手をかけている。
とにかく今年こそA1に上がりたいね。A1はAbemaで放送だから、子供たちの目にも付きやすいし。実は、離婚して3年後ぐらいに氷が解けていって、子供たちに会えたんだよね。今は1年半に1回ぐらいは会ってる。もっと会いたいけどね。4年前に發王戦決勝残ったときには、むこうに連絡して子供と一緒に見てもらった。だから、ある意味麻雀プロになった目標は達成できちゃったんだよね。
ところが、目標が達成されても石田は最高位戦を続けている。子供に見てもらうために始めた麻雀プロは、気づくと多くの人に見てもらうために打っていた。
多くの人に見てもらうため、凡人は打ち続ける。
ならば、凡人が工夫という1つの武器で鬼を倒すところを見届けようではないか。
インタビューを終え、お酒飲んでいいよと言われた石田はうれしそうにビールを注文する。
そこには、やはり普通のおじさんが座っていた。