コラム・観戦記

第23回 四角いジャングルの仕事師たち⑤

(フウッ、強い………)
相変わらずのドンさんの強さに他の2人も同じような気持ちだったに違いない。

回が増すごとにジリジリと優位を築き上げられていくような圧迫感。
それなのに、少しでもスキをみせたらバッサリ斬られるような緊迫感がある。

トド松がスタート時点のように手数を多く出せなくなっていたこともあって、局面はズッシリと重くなっており、それだけに誰もうかつには動けなくなっていた。
こういう局面で動けば、必ずスキができ、もちろんミスをすれば取り返しがつかない。

簡単に勢いにのれる者など誰もいない。こうなると完全に地力だけがものをいうのである。
だからこそ、一手の緩手が命取りになる、そんな緊張感の中に私はいた。

そんな局面がもうかなり続いているが、こうなってくると、ますますドンさんのペースといえた。
それも最初からわかっているのだが、こういった局面にもっていったのは、他ならぬ自分とドンさん、ケン坊の3人なのである。
とりあえずトド松の動きを封ずるのが目的で、やはりトド松に自由に動かれるのは、なにかとやりづらい。

ドンさんのペースといっても地力が物をいう勝負、それはこちらも望むところなのである。

といっても、たとえそんなことを意識していなくても遅かれ早かれこういった局面に落ち着く。
手牌を最大限に突き詰めていくことに重点を置くのがトド松の打法といっても、誰かに緩着でも出ない限り、このメンバーでそう簡単に動けるはずはないのも確かなのだ。

その意味で、動きを封じられたトド松が、この重い局面で互角に戦っているのはさすがというしかないのだが、それよりも私が驚いたのはケン坊のほうだった。

(こいつ、いつのまに………)

強いのである。
確かに以前から才能は認めていたし、麻雀でシノいでいる実力も認めてはいたが、その強さというのは、どちらかというと鋭いタイプの強さといえた。

さすがに、牌勢がハッキリしないときは強引な攻めはこないが、その程度のことは、麻雀でシノいでいる打ち手なら当り前のことで、ケン坊のような鋭い攻めを身上とする打ち手にはどうしてもそこのところで一分のスキができるものだ。
あちらをたてればこちらがたたずで、完璧な雀士などいないのだから、これはしかたがない。

ただ、いくら鋭い攻めをしようが、それで大勝しようが、ほんの少しでもスキをみせる打ち手は、どうしても超一流と比べるとほんの少しおちる。
それを埋めようと、さらに攻めを強化すれば、その分スキも増えるもので、これもしかたがないことといえる。

ところが、しばらくみない間にケン坊の麻雀は見違えるほど手厚くなっていた。
スキがないのである。

ドンさんという大敵を相手に、攻めても受けても、エイッ、というような感じの打牌が見当たらない、必ずといっていいほど、手厚い打牌を選ぶようになっていた。
これは驚くべき変化で、なかなかこうはなれるものではない。

もちろんその分だけ、身上の鋭い攻めは手数が減ったが、こういったものは手数が多ければいいというものでもない。
下手が相手ならそれでも決まるが、手が揃った場合はどうしても空振りも多くなる。
空振れば絶対にバランスを崩す。そのときが恐い。
つまりスキができるのである。

鋭い攻めも、手厚く打っておいて、ここぞというときにズバッと出すぐらいでないと、このメンバーじゃ通用しないといっていい。
だから、必ずしも攻めというのは鋭ければいいというものでもなく、手厚い攻めを積み重ねていくほうが確実な面がある。

それが、ドンさんであって、一発の破壊力こそないが、ジリジリとまるでブルドーザーのように攻めてくる。
そして、めったに体勢を崩さない。

いままでのケン坊の打ち方のほうが、ドンさんみたいな本格派よりも、手軽に勝てるということがいえるのである。
5の力で勝てる相手に、なにも矯めておいて10の力を出す必要はない。
常時5の力を出しておいたほうが勝ちが多くなるのは当り前なのだ。

私が驚いたのはその点で、勝ちやすさを捨ててまで、手厚い打ち方になっていたからには、相当の覚悟があったに違いない。

(強くなったなー)
7年前は、まだ予備校生だったこの男。
当時から才能は認めていたものの、これほど本格化するとは……。

私は、思わずあの頃のケン坊と今の麻雀職人らしい顔をダブらせてみていた。

ではいったい本格的な打ち手とはどういう打ち手なのだろうか。
麻雀は四人でやるというゲームの性質上、必ずしも勝つということと強いということが一致しない。
四人の手が揃うとは限らないからだ。

では、強くなるということは、どういうことなのだろうか。

ここにブロックがたくさんあったとする。
強くなること=ブロックを高く積むこと、と仮定してみる。

Aという人間は、まずブロックをひとつ上に積み上げた。
もちろんAは強くなった。

もう一人のBという人間は、なぜかブロックを上に積まず横に置いた。
Bは少しも強くなっていない。

Aは次のブロックをまた上に積み重ねた。
ところがBはまた横に置いた。
Aが2ランク強くなったのに、Bは少しも強くなっていない。
その後もAはどんどん上へ積み重ねていったのに対して、Bは横へ並べるだけだった。

Aが6コも積み重ねた頃、ある雀荘でAはかなり勝ち越すようになっていたが、Bは負け続けだった。
Aは強くなったともてはやされたが、Bに対しての評価は冷たく、
「お前は才能が無いから田舎に帰れ」とまで言われた。

だが、本当にそうだろうか。
確かに、ごく普通の雀荘で打つ分には、“勝つための技”を積み重ねていった方が強くなる。
が、それには限度がある。
Aが積み上げるブロックが、まさにそれであって、底辺が不安定なために高く積むにしたがって、グラグラとしてうまく積めなくなるのは当り前なのだ。

対してBのほうは、まだ少しも強くなっていなかったが、彼はそんなことを気にしていなかった。
最初から10コ程度のブロックを積もうとなんかしていなかったのだから。

ある程度の高さを積むのなら、“字牌なら出るだろう”といった甘い仕掛け、“こういったマチなら出るだろう”という相手をナメた迷彩、“端なら使いづらいだろう”とか、“ヒッカケなら出るだろう”といった安易なリーチ。
そういった数ある下手殺しの小手先の技を積み重ねていけばいいのである。
つまり、相手のレベルに合わせた打ち方を憶えればいいのである。

ところがBは、そういった小手先の技を使おうとしなかった。
というよりは相手がそういった甘い打牌やミスをする人間ばかりだとは思っていなかったのだ。

勝ちにいきたい局面はどうしてもあるが、それでもガンとして使おうとしない。
なぜなら、相手が甘い打牌やミスをする打ち手ばかりだとは最初から思っていないBにとっては、それが強くなることだとは信じられなかったからなのである。

つまり、その程度の打ち手に勝てるようになることが目的で打っていたわけではなかった、ということになる。

もちろん、最初のうちは地力もくそもないのだから、そんなことをしていたら勝てないのも当り前で、本手などそう簡単にわかるようになるわけがないのだ。
それでも、相手に甘い打牌やミスがないことを前提とした手、つまり本手を打つことを早くから身につけようとして打っていたB、そんなことはおかまいなしにただメンバーのレベルに合わせて勝つ手段だけを考えていたA、いったい最終的にブロックを高く積み上げられるのはどちらだろうか。

答えは自明の理、Bのような打ち手が、いずれは本格化するのである。

局面の方は、あいかわらずドンさんがほんの少し有利な牌姿を維持しながらジリジリと押すような感じだったが、ようやく私に逆転のチャンス手らしきものがきていた。

6回戦目のオーラス。

ドラは。トップめのドンさんとは1万点近くの差があり、その上にマチ牌のカンは2枚切れている。

それでも、この手牌はなんとかなりそうだな、と思っていた。
というのは、手変りが十分考えられる形、ということだけでなく、ここまで無理をしないで打ってきている通り、この手牌もトップを狙おうと無理に作った手牌ではなく、スンナリと入ってきたものだったからだ。
なにしろ、まだ6巡目というのが心強い。確かに手応えは感じていた。

ここへ、ドンさんがポンと仕掛けてきた。
トップめということを考えれば、ここはマチの良し悪しは別にして、少なくともポンテンと思わねばならない。
とすると、放銃った場合、他との点差も気になるところだが、現在2番手とはいっても3着のケン坊とは1300、トド松とは200の差しかない。

トップめが高い手を作る必要はないといっても、ポンの仕掛けにはちょっと放銃ちづらい。
ドンさんの捨牌は、
、そして、ポンで打ち。
チャンタ系統のような感じなのである。

ドラがなのだから、放銃てばラスまでありそうなところ、やはり注意を要する。
ところが思いがけないことに、8巡目ケン坊の打ったにドンさんがポン。
打牌は

ケン坊は3着めといっても、こういった危険牌はギリギリまで引張るだろうし、これまでの手厚い打ち方からしても、相当の十分形は間違いない。
それよりも、ドンさんのポンのほうが意外だった。
テンパイが入っていなかった、そう考えれば簡単だが、ポンテンでもないのにドンさんが有利と思える局面をそう簡単に動かすだろうか。
ポンテンなら自然な流れに乗っているが、そうでなければ局面を動かした分だけ他にチャンスを与えることになる。

そう考えれば、ドンさんのポンはマチ変えとしか思えなかった。
それも、チャンタだとすれば単騎の一点。
これも実はおかしなことなのだが、そのときは、そう思い込んでいた。

次巡、案の定ケン坊からリーチがきた。
とたんに私が引いたのは

はケン坊の現物、を切ればいいのだが、はドンさんにアタリの可能性が強い。
ケン坊の捨牌にはがある。
そこで、私はを打って「リーチ」、これにはかなりの勝算があった。
はケン坊の現物、私のスジ。いくらドンといえど、このは間違いなく出ると思っていた。

直撃ならトップになれる。
私には絶好のチャンスとしか思えなかった。

しかし、これがとんでもない独善だった。
ドンさんの手牌は、
(ポン) 
二枚切れをみて、2枚目のポンテンにかけてきていたのだった。
これなら、ポンテンにとるのも、ポンのマチ変えも納得がいく。
そうなのだ、よく考えてみれば、ケン坊の打ちに対して、ポンをしてまで、単騎にして手を詰めるはずがないのだ。

だが、アガったのはドンさんではなくケン坊のほうだった。
次巡私の捨てたで、


ハネ満の放銃だった。

これでケン坊が初トップを取り、私がラスになった。
この後の結果はもう見なくてもわかる。

だが、それでも私は席を立たないだろうなと思っていた。
こんなときはいつでも、甘い打ち方をした自分をこらしめるために、ジッと堪えてきた。
今日は、この素晴らしい麻雀職人達を相手に堪えてみよう。
そうしなければ、また同じ過ちを何度も繰り返すに違いない。
しばらくは手も足も出ないだろうが、この男達相手ならそれも納得がいく。

(良薬はニガイものと決まっている、か。)
そんなことを思いながら、闘志だけは異常に燃えてくるのを感じていた。

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