コラム・観戦記

第2回 若き流転の雀士ケン坊②

ケン坊がノータイムで打った牌はだった。

「ああ、ここにも体を張って麻雀打ってる奴がいる」

オレの体は震え出していた。

 

 「」 か・・・・・・・・

思わずタメ息が漏れそうになった。

(いるんだよな・・・・・・・・。ここでサッとを放ってる奴が)

一種の震えが体中を走っていた。

とにかくもう1度リーチの捨牌とケン坊の手牌を確認いただこう。

親リーチの捨牌はこう。

 (リーチ)

3枚とも手の内からの切り出し、

ドラは

ケン坊の手牌は

 

こうで一発目のツモが 。

情況はラス前。東場で親満をヒキアガっているケン坊がトップ目で、2番手につけている親リーチ者に対して一万点強の差はつけている。

 

点棒がないのであれば、ある程度自分の手牌の都合だけで押したっていい。

こんな一面子もない手牌からだって、

「だって1牌も安全牌らしきものがないんだから、いくしかないじゃないか」

で、済ませてしまうヤツだって多い。

 

だが断言したっていい、そう思って打っているヤツは絶対に上手くならない。

 

ここは絶対に放銃ってはならない局面なのであって、そこには「安全牌がないから」などといった甘えなど入り込む余地はない。ただ放銃たないことだけに全神経を集中すべきなのだ。

 

妥協を許さない、ギリギリまで全神経を集中させた一打。

その一打一打の積み重ねが、なにものにもかえがたい財産-そのことに賭け麻雀で生活しているとか、競技麻雀に命を賭けているとかいった区別があるはずがない。

 

麻雀に命を賭けている奴ならば、なにものにもかえがたいはずなのだ。

 

麻雀プロなどと名乗っていても、

「私は日夜普及活動に勤めています」

「賭け麻雀はやりません、麻雀を打つのは公式戦を除けば月5回くらいです」

恥ずかしげもなく、こんなことを誌面に堂々と書いている奴らがいる。

 

賭け麻雀をやらない、これはいいことだ。

だが月に数回しか打たない、これはいったいなんだ。

 

プロにとって、なにものにもかえがたいはずのものを忘れているとしか思えない。

普及活動は大事だが、それを踏まえてのものであるはずだ。

 

こんなことを書く麻雀プロは、たとえどんな大きなタイトルを取ろうとも、麻雀打ちとしては信用できない。

 

本気でそう思っているならアシスタントプロになればいいのだ。

麻雀プロを名乗っているだけの男がいる反面、ケン坊のような奴もいる。

 

ケン坊のうちにはその積み重ねてきたものがズッシリと感じられた。

体中に震えが走ったのは、その重みがハッキリと伝わってきたからなのだろう。

 

あぁ、ここにこれだけ体を張って麻雀を打っている男がいる。

 

その麻雀を見ることができる、いやそれだけじゃない、力の限り打ち合うことができるのだ。

 

麻雀打ちとして、これほどの幸せがあろうか。

一〇一でも味わえる、この麻薬のような感覚。だがちょっとだけ違う味。

 

この匂いを少しでも嗅ぐと、なぜだろうか、麻雀の中に溶け込んでいってしまう。

他の事は全て目に入らなくなり、まるで全ての牌が透けて見えていると錯覚したように全身神経が集中され、迷いがなくなる。

 

ケン坊のがまさにそれ。

その証拠に自分がそういう状態になっていくのがわかる。

無性に麻雀が打ちたくてたまらなくなった。

 

 

を打つぐらいならじゃない」

この原稿を書く前、ためしに聞いてみたら何人かはそう答えた。

これは積み重ねてきたものどころではない。

基本がなっていない。

 

よりもの方がはるかに安全度が高い、これはのたった3枚の捨牌の中にまぎれもない事実として出ている。

 

まず、よりはと言った人は、ならマチだけだが、マチの両方にアタル危険性があると思ったからだろう。

 

だが、マチは、この捨牌ではまずない。

たとえば、親の2巡目の手牌が

 

こうだったとしたら、誰が打ってもを打つだろう。

どちらから打っても、手役にもドラにも関係がない、つまりどちらが先でもいいのである。

 

そんなときあなたはどちらを先に打つか?

 

正常な感覚の持ち主はから先に打つ。

私もそうである。なぜか。

3と7は尖張牌といって非常に利用度の高い牌であるから、必要とする頻度も高い。

 

裏を返せば、それだけ危険度が高いという認識を持っている。もちろんこれは間違った認識ではない。

 

その認識が、完全に不必要な2牌、を比較させた場合、を先に打たせる。

 

だからはない。

 

先の手牌なら、という捨牌になっている。

 

もちろんという完全単独形が否定できるからといって、それだけでマチを否定するつもりはない。

 

手役絡み、つまり複合形の場合はどうであろうか。

三色複合形は今回省略するが、まず、一色複合形。

一色複合形の代表一盃口の場合は

 

の形にを加えたケース、つまり

 

の形が

 

の切り順になるわけであるが、今回に限っていえば、まずなかろう。

 

というのは、打ちの次巡すぐにリーチがかかるくらい十分形であったならば、第1打はではなくではないだろうか。

 

1巡長くを引張るメンツ構成、これはいちいち書けばキリがないが、いずれにしても、ではかなり頻度が低いことがおわかりいただけると思う。

 

では、もうひとつの一色複合形の代表である一気通貫の場合はどうか。

 

マチの場合はこの形にを加えた。

 

 

こうなるわけだが、これは完全メンツのを取り除けば、

の単独形と同じ形になる。

 

同じ形にはなるが、この場合は完全単独形とは別の意味でとはならない。

つまり+対子の形から、どちらが暗刻になってもテンパイするからである。

 

つまりこの形からの切り順にするためには、配牌2シャンテンの形に戻らざるをえないのである。

 

わかりやすくいえば

この形からふたつ引いたものである。

 

そこからの入り方の順番の相違によってはになる。

 

もちろんこれも相当頻度は低いが、まあ、一例をあげると、

 

つまりを抜いて2シャンテンに戻したものであるが、ここに先ずをツモれば打ちであり、次にをツモれば打ちという数少ない、というマチができるのである。

 

しかしこれは例外の分類といってもよく、十中八九はないものを恐れていては何も打てないということになる。

特にケン坊の手牌、安全牌らしきものはまるでないのであって、十中八九通るならば、打ちなどと比べれば、はるかに安全といっていいであろう。

 

では、なぜという順番になったかというと、よりもの方が手牌に必要だったからで、その代表的な形は、

 

である。

 

これがよりもの方がはるかに安全度が高いと書いた理由なのである。

 

その上にという形は、順子系統の局か対子系統の局かの判断材料が少ない時は+対子からどちらかが暗刻になってテンパイするよりも、を引いてテンパイする確率の高いこと。

 

逆にその形が残った場合もを打ってマチにすることが多いこと。

 

それに加えて、先に書いた危険意識。

 

以上の理由から、はテンパイまで持たれる性質の牌ではないのである。

 

つまり、テンパイ表示牌(リーチ牌と思っていただいてけっこう)がの場合は、

よりもの方が圧倒的に多いのである。

 

もうくどい説明も必要なかろう。

 

打ちのリーチにはよりもを打て」

 

もちろんがない時ではあるが、これはもう毎日麻雀を打っているプロの間では格言といってもいいぐらいなのである。

 

で打つとタンヤオがつくからといって、

 

「安め!」と叫んでを打つ君にはピッタシの格言である。

ついでにもう少していねいにすると、

「2、3でリーチは1。7、8でリーチは9が危ない」となるのである。

 

ケン坊の打った、このぐらいのことは全て含まれているが、いちいちそのことを頭で考えているわけではない。

 

これだけに妥協を許さない、ギリギリまで全神経を集中させた一打一打の積み重ねをいやというほど感じさせてくれる。

震えが止まらないのである。

 

ところで、ケン坊がを打った直後、思いがけないことが起きていた。

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