コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.65】猪股幸枝 ~関内の夜を彩るしゃがれた笑い声は、幸ある未来への16ビート~

(インタビュー・執筆:神尾亮

2023年11月24日、横浜市初の麻雀BARが関内にオープンした。

麻雀BAR「ALLGREEN」。

緑一色という役満の別称であるが、役満の破壊力を感じさせないさわやかな店名とロゴデザインである。

思い切って店の扉を開けてみると、元気な声が店内に響き渡る。

「いらっしゃいませー!!!」

猪股 幸枝(いのまた ゆきえ)

選手紹介ページ

X(旧Twitter)

女流Aリーガーとして活躍しながら念願の麻雀BARを出店することができた幸枝ママの半生を、今宵はお酒を飲みながら聞かせてもらうことにしよう。

 

体を動かすことが好きだった幼少時代

私、ちょっと手のかかる子だったんだよね。

1976年1月27日、東京都大田区で、4才はなれた兄を持つ二人兄妹の末っ子として猪股は生まれる。

ミルクも飲まない、抱っこされていないと寝ない、小児喘息も持っている、で本当に大変だったみたい。

町工場の近くに生まれたという環境も影響し、小児喘息を患っていた猪股だが、外で遊ぶことは制限され、喘息が早く治るようにと水泳に通わされた。

プールに週1で通っていたんだけど、それが唯一の楽しみでねー。喘息が治っても小4まで通い続けたの。バタフライとかもできるようになって、選手コースに入れられていたんだ。

小4でバタフライとはすごい。ビート板から離れられなかった筆者とは大違いである。

徐々にタイムを競わされるようになって、練習も厳しくなるんだけど、それが苦痛でねー。私はただ楽しく泳ぎたいだけだったんだもの!結局きつい練習が嫌でやめちゃったね。

ただ楽しく泳ぎたいだけ。猪股イズムを感じる言葉だ。

足も速いほうで、運動会でリレーの選手をまかされることが多かったのね。でもある時、お兄ちゃんに言われたの。「お願いだから、ガニ股で走らないでくれ」って(笑)。

どういう体の構造なのだろう。普通のフォームではなく、ガニ股で走ると速く走れるのだと言う。あだ名も当然「がにまた」だったそうだが、彼女がガニ股で全力疾走する姿を想像すると笑ってしまう。

だから、その年のリレーはしぶしぶ普通のフォームで走ったんだけど、当然力が出なくて序盤出遅れるのね。

とはいえ兄は安心しただろう。ガニ股で走る妹の姿が大勢に見られなくて済んだのだ。

でも気づいたら、スピードが上がっていて、最終的には1番でゴールテープを切るの。思いっきりガニ股でねっ!

観衆は盛り上がったに違いない。大歓声の中で顔を覆う兄の姿が想像できる。

観衆を沸かせる力、そして勝負に対して負けず嫌いな性格、いかにも猪股らしいエピソードである。

 

ロックに熱狂した青春時代

中2の時にね、バンドブームが起きるんだけど、私、UNICORNというバンドにハマったのよ。

1980年代後半から起きた熱狂的なバンドブーム。プリンセスプリンセス、レベッカ、JUN SKY WALKER(S)など当時人気だったロックバンドを挙げればきりがなく、「いかすバンド天国(通称イカ天)」が驚異的な視聴率を上げ、日本がロックに熱狂していた時代だ。UNICORNは奥田民生ボーカルのロックバンドで、1987年にデビューし、当時数多くの人気を集めた。

仲良かった友達の家で、UNICORNがずっと流れていてね。聴き続けていたら自然と好きになっちゃったの。ポップロックっていうジャンルの曲で、X JAPANとかはジャンルが違うから聴かなかったんだけど、UNICORNばかり聴いていたね。

型にはまらないUNICORN独自の世界観に猪股はとにかくハマったようだ。

一緒にUNICORNにハマった子と高校でバンドをやろうって話になって、軽音楽部のある高校を一緒に受験したの。

当時、成績があまり良くなかった猪股だったが、どうしてもその高校に行きたくて、半年間の勉強で合格を掴んだという。とにもかくにもバンドをやりたかったのだ。

「絶対に受からないからやめろ」って、親にも担任の先生にもめちゃくちゃ反対されたんだけど、受かればいいんでしょって聞く耳持たずに受験したら、受かっちゃったんだよね。

要領も良かった猪股は、朝から晩まで勉強をしたというわけではなく、テストの出題傾向を何となく掴み、あとは持ち前の感性で受かったそうだ。サラッと言ってはいるものの、そうなかなか結果まで出せるものではないだろう。

晴れて高校に入学し、友達と一緒にバンドを組んだ猪股が選んだ楽器は、ドラムだった。

UNICORNのドラムの人も好きだったし、『ポニーテールは振り向かない』っていうドラマを小学校の時に見たんだけど、それが女性ドラマ―の話だったんだよね。その影響もあるかな。叩けば音が出るっていう単純さも私に向いていたのかも。

とはいえドラムは手だけでなく足も使って叩くものである。器用な猪股だからこそできたに違いない。ちなみに猪股のキャッチコピーが「ドラ娘」なのは、このドラムから取っているのだそうだ。

ドラム叩いたり、学校サボってUNICORNのライブ見に行ったり、とにかく青春だったね!「ホットウェーブフェスティバル」っていう、音楽の甲子園って言われた大会があったんだけど、それにも出場して、決勝の手前までいったんだよね。凄い盛り上がりでさ、1000人の観客の前で演奏したんだよね。

とても輝かしい青春である。仲間達と日々楽しい音楽に触れ、熱狂し、熱狂させる。猪股と一緒に青春できたらどれだけ楽しかっただろう。

 

プロの在り方を教えてくれた恩師との出会い

高校卒業後は専門学校に通ってドラムの勉強をするんだけど、まわりのレベルが高すぎてビックリしちゃったよね。高校の時なんか、そこまでちゃんとした練習をしていなかったから、スティックさばきとか足さばきの基本も知らなくて、いきなり挫折したんだよね。

楽しく青春していた高校生バンドの世界と、専門的な音楽の世界の違いに面食らったのだという。

それでも初めは頑張って練習するんだけど、教えるのはプロのミュージシャンだからさ、「結局はグルーブだよね!」とか「あとはいっぱい音楽を聞こうぜ!」くらいのことしか言ってくれない人もいて嫌になっていたんだよね。

そんな挫折を経験した猪股だが、2年生になり、人生の転機とも言えるような運命的な出会いをすることとなる。

当時25才の若い先生なんだけど、染川良成さんっていう先生がやってくるのね。授業では、マーチングっていうのを教えてもらうんだけど、スティックさばきを深く追求した内容とかを教えてくれる授業で、軍隊みたいな授業だったけど、それが結構楽しかったのよ。先生に教えてもらった通りにやると、魔法をかけられたように出来るようになって、それもすごいなぁって思っていたの。

染川良成氏は現在でも講師としてドラマーを育てているだけでなく、劇団四季やテレビの仕事、教則本の執筆など、ドラム業界で幅広く活躍されている。

そんな染川氏の授業に魅了された猪股は、彼が率いるマーチングバンドに所属することを決め、スティックを振り続ける日々を送る。

とにかく毎日練習して、アルバイトとかもほとんどせずに、安い弁当を食べては夜まで練習する日々だったのね。で、夏に、音楽業界の偉い人達が見にくる大事なイベントがあって、緊張もしながらその日の本番を迎えたの。

この時、猪股の人生に大きく刻まれる事件が起きた。

音響を担当している子がカセットテープから曲を流して、それにあわせて叩くんだけど、その音響の子が、カセットテープを一番初めまで巻き戻していなかったのね。

何ということだ。この後の展開が怖い。スティックを思い切り振り上げられたような緊張感が走る。

本来は4カウントが鳴って曲が始まるんだけど、初めの1カウント分が鳴らなくて、3カウントで始まっちゃったのよ。当然私たちは大パニックになって、みんなスティック振り回して「曲とめてー!やり直してー!」ってアピールするんだけど、そのまま進んじゃって、途中から叩き始めた子もいたんだけど、結局グダグダのまま終わっちゃったんだよね。

何百時間もの練習が水の泡となってしまった。ショックと怒りと虚しさと、あらゆる感情がメンバー達を襲っただろう。

終わってから控え室に戻るんだけど、ブチ切れてスティックを壁に投げつけていた子もいたのね。そしたら、染川先生がこう言うの。「お前らの気持ちも分かる。分かるけれど、プロとしてこのイベントの舞台に立った以上、演奏を止めてはいけなかった。」って。

この言葉を聞いて、猪股はプロとしての在り方を学んだと言う。プロとして見られている以上、プロとしての振る舞いをしなければならない。我々麻雀プロにとっても、気が引き締まる言葉である。

(猪股の後方に座っている青服の男性が染川氏)

でさー!この話を、去年の夏に、当時のメンバーで集まって飲んだ時に話したらさー!みんな、覚えてないって言ってたんだよ!ビックリしたよ!うそでしょー!って(笑)。

良い話を聞けたと思ったら、しっかりとオチをつける。これもまた猪股のプロらしさと言えるのかもしれない。

 

夜の世界で学んだ経験

25才の頃かな。当時、染川先生のもとで働きながら、バンド活動もしていたのね。ただ、バンド活動するうえでお金が必要で、アルバイトもしなくちゃならなかったのよ。

当時、時給の良いアルバイトを探していた猪股は、アルバイト雑誌でとある仕事を見つけた。

『ジャズ・ブルースが聴けるBARのバーテンダー募集!』っていう記事があったんだよね。音楽も好きだし、時給も1500~1800円で良かったからすぐに応募したのよ。そしたら、それがいわゆるガールズバーだったんだよね。

実際にはジャズもブルースも流れないサザンばかり流れるお店だったらしいが、何はともあれ、猪股が夜の世界に飛び出していく。

お酒を飲むのは好きだったから、他のお店で働くようになったときも酒飲み担当みたいな感じでガンガン飲んで、仕事終わった後も飲みに行っていたね!

猪股が楽しくお酒を飲んでくれるのだから、そりゃあ楽しいにちがいない。客の財布もさぞかし楽しそうに口を開けたであろう。

それから2年半くらい経ってかな。そろそろ将来のことを考えてお金を貯めていこうかなぁって考えていた頃に、初めに働いていたガールズバーのオーナーさんの紹介で、関内にある高級クラブで働くようになるんだよね。

ここでまた猪股にとっての転機が訪れる。

そこで働くようになって学ぶんだけど、「自分を客観視できる力」って大事だなって気づくんだよね。というのも、高級クラブだからまわりは綺麗な人ばかりだし、そこで初めてデブとか言われてビックリしちゃったの。

よくもそんなひどいことを言えるなと思うが、ここからが猪股の凄いところである。

じゃあそういう環境の中で、自分がどう見られているのかをまず考えて、そのうえでどう立ち振る舞えばお客さんに楽しんでもらえるかっていうのを考えたんだよね。例えば、高飛車な振る舞いって普通嫌われるけど、見た目とかキャラクターがマッチしていると逆に人気が出る子もいるのね。でも、他の子がマネすると火傷するのよ。そういう感じで、自分がどちらのやり方が向いているか、客観的に考えるようにしたの。あとは、お笑い番組を見てトークの勉強をしたり、接客についての本を読んだりして勉強したね。そしたら、そのお店のNo.2になることができちゃったんだよね。

不利な環境に対して落胆するのではなく、冷静に自身を客観視して行動を変える。そして最終的に結果を出す。これは並みの人間ではできないであろう。

染川先生のもとで教えてもらったプロ論と、こういった夜の仕事での経験が、今の私を作っているって言えるんじゃないかな。

さて、そんな猪股は2013年に結婚し、夜の世界から一度離れることとなる。専業主婦として家事をしながらテレビを見ていた猪股の目に、とある番組が目に飛び込んでくるのである。

 

麻雀プロの道へ

家でテレビを見ていたら、日本プロ麻雀連盟さんの「天空麻雀」が放送されていたんだよね。そこで映っていた佐々木寿人プロがめちゃめちゃかっこよかったの!見た目というか、麻雀がマジでかっこよかったんだよね!

麻雀はルールくらいしか知らなかった猪股だが、仲間内で麻雀を打つことはあったという。

まぁ負けてばかりだったんだけど、たまに勝ったときに「お前強いなー!」って言われたことがあってね。今思うとそれはイヤミだったんだけど、私それを真に受けちゃってさ!それをきっかけに麻雀プロを目指すんだよね。麻雀プロだったら、おばあちゃんになっても死ぬまでずっと続けられるじゃない?それも魅力だったんだよね。

ありとあらゆる過去問を印刷して猛勉強した猪股は、佐々木寿人プロの所属する日本プロ麻雀連盟を受験する。

筆記試験は70点台でぎりぎり大丈夫だったんだけど、実技が全然だめでね。親決めのやり方も分からないし、井桁の組み方も分かってなくて、当然のように落ちちゃったの。

しかし我々は知っている。猪股は諦めないのだ。

猪股は、白楽の麻雀店『アリス』でフリーデビューをし、麻雀を打つ練習を重ね、今度は最高位戦を受験する。

そして2015年、最高位戦のプロとしてデビューを果たすのである。

40期前期に入会した猪股は、D1リーグを+124.5で昇級。

当時の昇級者インタビューを見てみると、

とても楽しそうだ。遠足のようにリーグ戦を楽しみ、昇級も決める。順調な麻雀プロ生活のスタートである。

でも、徐々に麻雀を勉強していくうちに、逆にバランスが崩れちゃったんだよね。2017~2018年あたりはダメだったね。ちょうどそのあたりで離婚したのもあって、メンタル的にもやられていたね。

たしかに生涯成績表を見ると、41期後期から43期あたりまで、成績が振るわない時期が続いている。離婚というつらい節目もあったということで、精神的に大変な時期であったにちがいない。

この時期から、またクラブで働き始めるのよ。一人で生きていくためにね。自分のお店を出したいという気持ちもあって、その資金を稼ごうと思ったの。働き始めて1年たってチーママという役職に就くんだけど、2020年にコロナ禍がやってくるのよ。

誰もが想像しえなかった世界である。外でお酒を飲むことができなくなったのだ。夜の世界にとっては大打撃である。猪股はクラブをやめることとなり、貯金を切り崩して生活する日々となる。

でもね、これをきっかけに、麻雀プロとしてより一層麻雀頑張ろうって思い直したの。色んな麻雀関係の集まりに顔出したり、勉強会にも積極的に参加したりするようになったんだよね。

時間ができた分、それを麻雀プロとしての活動、勉強に費やす。猪股は、与えられた試練を、糧に変えるのである。

(画像引用:スリーアローズコミュニケーションズ)

そして2022年、猪股は女流名人戦の決勝にまで進出し、さらには女流Aリーグへの昇級を決める。努力というプロセスだけで終わらせず、きちんと結果まで出すのが、猪股のプロフェッショナルなのである。

 

「らしく」打てていなかった昨期の女流Aリーグ

初めての女流Aリーグはダメダメだったね。毎節放送対局だったというのもあるんだけど、雰囲気に飲まれちゃった感じだった。

筆者も猪股と勉強会をやる機会は多く、打点意識の高さや、しっかりと攻めきる戦い方は圧巻だと思っている。

勉強会でのワンシーン。親リーチと萬子の仕掛けにはさまれた場面。安全に9sを切っての東のみカン8mテンパイとはせず、7mを切って三暗刻にとり、アガりきった2000/4000である。強く打ってラス牌を引き寄せる結果の出し方が、とても猪股らしいと感じたものだ。

そんな猪股がたしかに女流Aリーグでは飲まれていた。配信対局となった2023年女流Aリーグ第1節の場面である。ドラも切られていて、仕掛けもリーチも入っていない捨て牌3段目に入ったところであるが、この手から8mを切って手牌をリャンシャンテンに戻してしまっていたのだ。

「らしく」打てていなかったかもね。第1節が終わった後、放銃してもいいから、私らしく打たなきゃって反省したんだよね。でも、こうやって反省できたのは、女流Aリーガーとして放送対局に出られたからだから、本当に良かったと思っているの。

とはいえ、さすがの猪股である。一時は降級圏に潜っていた時期もあったが、全8節終えてみれば、しっかりと残留したのである。

そんな猪股に今年の目標を聞いてみた。

何とか残留はできたので、今年は女流最高位を目指します!言葉にしちゃえば叶うから!

これまでに培ったプロとしての在り方、そして自らの失敗や行動を客観視する力。

様々な世界を経験して得たその武器を活かし、今年の目標もスパッと達成するのではないかと、期待せずにはいられない。

 

ALLGREENを愛してくれる人を増やしていきたい

さて、冒頭の話に戻るが、2023年、猪股は自らが手がける麻雀BAR「ALLGREEN」を関内に出店した。最後にどういうお店にしていきたいか聞いてみた。

とにかく麻雀BAR「ALLGREEN」を愛してくれる人たちの集いの場にしたいね!

これはあっという間に達成するであろう。何と言っても幸枝ママが面白いのである。彼女に会うと楽しい魔法にかけられてしまう。時間も忘れて楽しいお酒を飲んでしまうのだ。

入ってほしいゲストがいるか聞いてみると、こう返ってきた。

新人の麻雀プロの子でも、ゲストをやってみたい人は是非ご連絡ください!アハハ!

筆者も昨年、プロ8年目にして初めてALLGREENでBARゲストというものをやらせていただいた。お客さんに入れていただいたシャンパンを開ける経験なんてなかなかできないものだ。貴重な機会に感謝している。本当に楽しかった。取材を終えたころには当然終電はなくなっていた。

猪股の面白い話はまだまだあったのだが、盛り込みきれなかった筆者の文才不足を許してほしい。「ぼっとん便所事件」「ツンデレ学級委員長」など、色々と幸枝ママから直接聞いてみてもらいたい。

是非ともALLGREENで、美味しいお酒と、楽しい笑い声とともに。

 

【追加取材】最愛の父へ

取材を終えた数日後、猪股から連絡を受けた。

2024年1月28日、猪股の最愛の父が天国に旅立った。あまりに急なことだった。

どういう方だったのか、聞かせてもらった。

お父さん、ちょっと変わっている人だったのよ。ゼリーをスプーン使わずに口で吸って食べてみたり、家の壁を変な色合いに突然塗っちゃったり、信じられないくらいの量のカレーを作ってみて、いよいよ食べ終わるという日に、大量に作り足しちゃったりしてね。でも、そんなお父さんが面白くて大好きだったのよ。

お茶目でかわいらしい方だ。猪股が「美味しいね。」と言ったのを聞いて、嬉しそうにカレーを作り足したのだそうだ。

そんなお父さんも去年あたりから物忘れが多くなってきてね。そしたら、自分から病院の物忘れ外来に通いだすようになったのよ。こういうところが凄いと思うんだよね。

病院なんて行かなくても大丈夫だとか言ってヤセ我慢するんじゃなくて、現実に対して向き合っていこうって、前向きに頑張ろうとしていたんだよね。そんなお父さんが本当に誇らしかったんだよね。

今回の記事を読んだ皆さんは、この話を聞いて感じるものがあるだろう。そう、現実に向き合って前向きに頑張るという父親の姿勢、これがきちんと娘に受け継がれているのだ。

私がお店出したのを聞いて、「店がんばれよ」って開店祝いもくれたのよ。一度お店に遊びに行きたいって言ってくれていたのに、本当に残念。

風呂場でのヒートショックで突然亡くなったのだという。83才だった。

面白くて、優しかったお父さんが誇らしくて大好きだったの。そんなお父さんのことを忘れないでいてもらいたくて、最後にお話させてもらいました。

人が死ぬ時っていうのは、人に忘れられた時だと思うからね!あ、これワンピースの名言ね。

猪股が活躍すれば、この記事が読まれる。この記事が読まれれば、読者の心にお父様が生き続ける。そんな娘の気遣いに、お父様も喜んでいるにちがいない。

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