(取材・執筆:徳岡明信)
当時の彼はとんでもなく生意気だったよ。僕の方が2年先輩だったんだけど麻雀の話も常に上から目線でさ(笑)。くだらない2シャンテンの牌姿で2時間くらい討論した事もあった。お互い負けず嫌いだから1歩も引かないの。あと昔、彼はよく「リーチは思考放棄しているから弱い」って言ってたの。それにも僕は噛みついてよく討論してたね。
でも昔からとても強い打ち手ではあったのは間違い無いね。彼はとても鋭い麻雀を打ってくる。特に鳴き読みに関してはとても長けていて、ギリギリまで攻めこんでくる印象。門前進行の手順も鮮やかなものが多い。とにかく、彼とは腐れ縁の仲だね。
今年の年明け、福岡でゲスト終わりの村上淳に飲みの席で聞いた話である。昔は尖ったプロ雀士が多かったとはよく聞くが、その男も例外ではない。
そんな村上淳がとても楽しそうに語る尖った男が今回の主人公である。
佐藤 崇(さとう たかし)
選手生活25年。1度は最高位戦を離れた時期もあったが、昔も今も強者として名が上がる一角を担う存在だ。
彼が若い時の尖り具合、そして現在までの変化、佐藤崇のルーツを紐解く旅へ出発しよう。
バンドと麻雀の二刀流だった若かりし頃
京都府宇治市出身、幼き頃の崇は活発で常に輪の中心にいたという。
中学高校と生徒会長をやっていて人気者だったよ。僕は自分から目立ちにいきたいタイプではないんだけれど、なぜか勝手に人が集まって来てたんだよね。
当時はサッカーとピアノを同時にずっとやっていたね。ゴールキーパーだったんだけど、突き指したらピアノ弾けなくなっちゃうじゃんね(笑)。その後はドラムにハマってバンドを始めたの。将来は音楽で食っていこうと真剣に思って東京の音楽専門学校に進学して上京した。
陽キャな学生時代を歩んでいた崇。このころ既に麻雀との出会いも済ませていたという。
麻雀は中学生くらいから周りの友人に勧められて既に始めていたね。
ハマったら探求するタイプだったから周りよりもすぐに強くなっちゃって全然相手されなくなっていってさ(笑)。
上京してからすぐに武蔵境の雀荘で働き出して、バンドと両立してたんだけど、ある時迫間さんっていう元連盟の方に「神楽坂にあるばかんすで働かないか?」と誘われて働き出した。そこで元最高位戦の岩沢さん(岩沢和利・現RMU)に誘われて最高位戦を受けることになったんだよね。ちょうどその頃タッキー(滝沢和典・日本プロ麻雀連盟)と知り合って一緒に受けにいったんだけどタッキーだけ落ちちゃって僕だけ受かっちゃったの。
その頃にばかんすに遊びに来ていた古久根さん(古久根英孝)に出会ったんだよね。そこから古久根さんにはずっと麻雀を教えてもらっていた。いわば師匠だね。古久根さんに紹介されて参加させてもらえることになったのが「牌理塾」っていう研究会。当時は安藤さん(故・安藤満)や金子さん(金子正輝)や来賀さん(故・来賀友志氏)も参加しててとても刺激になった。今の研究会の先駆け的な会で、1局検討やヘッドフォン麻雀を初めて経験した場だったの。
当時のプロテストは当日の実技試験の結果も合否に大きく影響していた。その勝たなければ入会する事が出来ないという、とても大きなハードルがあったのだ。
こうして晴れて最高位戦の門を叩いた崇。バンドと麻雀プロの両立で生活していた崇に転機が訪れる。
その頃にバンドがうまくいかなくなってきちゃって、音楽の道を諦めて麻雀1本で生活していくことに決めたんだ。古久根さんの経営する『BOY』っていう麻雀店で店長を数年やって、その後知り合いから誘われて働き出したのが渋谷の『ジパング』っていう麻雀店だった。
渋谷の『ジパング』という麻雀店は麻雀プロ界隈では伝説の店として今なお受け継がれている。過去には園田賢、坂本大志、醍醐大、堀慎吾(日本プロ麻雀協会)、吉田光太(日本プロ麻雀連盟)などの今ではトッププロの猛者が一同に介していた。
木原さん(木原浩一・日本プロ麻雀協会)、わたるん(水巻渉)と僕の3人が中心となって働いていたんだよね。当時は怖いもの見たさや麻雀の腕自慢がこぞって集まるお店だった。今思い返すと化け物しか働いてないじゃんこの店って感じだよね(笑)。
麻雀1本の生活となった崇。今までの二刀流の生活からどっぷりと麻雀に集中し、リーグ戦も順調に昇級する。
そして今咋の本題へと入ろう。筆者が今までの放送対局で最高傑作だと感じる『第35期最高位決定戦』の話題へ。
日本一の麻雀バカを決めようぜ
(え、任侠ものの映画かな…?)
と、思わせるこのパッケージ。
ノンノン、これは最高位戦として初の対局映像化されたDVDです。
第35期の決定戦は自身では2回目の決定戦だったね。この年は初めて映像化されたのはもちろん、初の試みとしてパブリックビューイングで行われたんだよ。当時の最高位決定戦って、毎節大勢のギャラリーに囲まれて打つんだけど、それとは違う雰囲気で、とても変な感じがした。
カメラ1台と対局者4名、それを囲う大勢のギャラリー、今では想像もつかない空間にノスタルジックな雰囲気を感じる。
しかし筆者も最高位戦に所属する麻雀バカの端くれだ。この写真1枚にとてつもない高揚感を感じた。
同時にこの記事を書いて多くの人にこの対局を知って欲しいと感じた。そして成田編集長に「崇さんの記事を書かして欲しい」と直談判した。それが今回のこの記事が誕生する経緯なのだ。
中でも、崇に語ってもらったエピソードで一番震えたのがこの発言だ。
始まる前に飯田さん(故・飯田正人)がみんなに向かって
「よし、日本一の麻雀バカを決めようぜ」って言ったの。これにはさすがに痺れたよね。
圧倒的な強さを持つレジェンド飯田さんにずっと麻雀談義してお互い切磋琢磨し合っていたずんたんとわたるん、この3人と麻雀バカ日本一決定戦を出来る事がとにかく嬉しかった。最終節のゲスト解説には同じ勉強会でお世話になっていた来賀さんも来てくださって、ホントに幸せな時間だったね。
決定戦を戦う14年前の崇。
眼光鋭い視線の先には最高峰の戦いが広がっている。
第1節、第2節と好成績を残し首位で迎えた折り返しの第3節。ここがこの決定戦のキーポイントとなった。
第3節で1人負けの状態だったずんたんに吹かれちゃったんだよね。飯田さんとわたるんはその中でもうまく着をまとめて軽傷で済んだんだけど、かわりに僕が一番ポイントをマイナスしてしまった。
もちろん全員からマークされていたってのがあるんだけど、この節は本当にキツかった。
この決定戦に残った年に実は3つタイトル戦の決勝に残っていて、うち1つは優勝してた(第9期麻雀ダービー優駿杯優勝 、現存しないタイトル戦)。だからその時はやたら自信に満ち溢れていたんだよね。でもやっぱり決定戦は全然違った。追われるプレッシャー、観客もいるいつもと違う環境での対局、そんな異様な雰囲気に飲まれっちゃた。その感覚は今でも鮮明に覚えているよ。
この時の事を第35期最高位の村上淳はこう語ってくれた。
崇は覚えてないかも知れないけど、当時のSNSで崇が第3節が始まる前に「飯田さん水巻さんに捲られないように頑張ります!」みたいな事を書いててさ。僕の事だけ触れられてなかったの!これは流石に火が付いたよね(笑)。それで第3節はけっこう吹いてそのまま優勝できた。ある意味崇のお陰だね。
そうお酒を嗜みながら昔の激戦を思い出し、楽しそうに語る村上。良きライバルについて語るインタビューが楽しかったのか、いつもより饒舌な気がした。
しかし崇もただでは倒れない。第4節に大きくポイントを戻して全員に目がある状態で迎えた最終節。初の映像化として何台もカメラが入る対局室。更にいつもと違う雰囲気の中戦った崇はこう語る。
最終節はもう蚊帳の外だったよ(笑)。ずんたんと飯田さんのマッチレースをただただ眺めているだけだった。結果はスタートで大きくつまづいていたずんたんが優勝、強すぎて本当に清々しい負けだったね。
自然と悔しさは1ミリも無かった。何でかって考えた時に、まずこの最高のメンバーと戦えた事が嬉しかったし財産になったから。あとは全節持てる限りの力を出し切って精一杯戦えたからかな。
珍しく(というと失礼かもしれないが)謙虚なコメントであった。でもそれが崇の本心で、麻雀バカ日本一決定戦を戦い抜いた誇りでもあったのだろう。
こうして激戦の末、第35期最高位決定戦を制し「日本一の麻雀バカ」に輝いたのは村上淳だった。
(後ろで悔しそうに見つめる崇)
崇は総合3位で幕を閉じ、「日本一の麻雀バカ」にはあと少し、届かなかった。
戻ってきた男、そしてもう1度あの舞台へ
この後Aリーグを降級する。そして崇はある決断に至る。
2012年に1度家庭の事情で新潟に引っ越したのをきっかけに退会する事にした。
そこからしばらくして知人から新潟で一緒に麻雀店を経営しないかという相談を受けたの。それと同時に最高位戦の新潟支部ができるからSV(スーパーバイザー・相談役)という立場で復帰してくれないかと大志にお願いされたんだよね。そこで再び麻雀界に戻ってきた。
(新潟支部設立記念大会でゲストを務める崇)
こうして2017年に最高位戦にカムバックしてきた崇。しばらくは新潟支部での運営をメインで活動するが、2019年からはついに選手としての復帰を果たす。
ありがたい事に過去の実績を踏まえてC1リーグから復帰させてもらったんだけど、やはり当時は反発もあったよね。今でこそ途中復期や上位リーグから編入はよくある事だけど、当時は少なかった。
もちろん思う事はいっぱいあったし後ろめたさもあった。でもやっぱり選手としてもう一度やりたいという気持ち、そしてまだまだやれてない事があるんじゃないか。それを確かめに行きたい。だから僕は復帰を決意したの。
その時新潟で雀荘の経営をやっていて、そのお店も軌道に乗り出して忙しかったし両立は厳しいから辞めるしかないかなと思っていた。でも共同経営者や従業員の協力に助けられて新潟から通いながら選手復帰出来るようになったんだ。
その後、時代はコロナ渦へ、故郷の京都に戻り関西本部へ活動の拠点を置いた崇。リーグ戦はさすがの腕前であっという間にA2リーグまで昇級するが、一筋縄ではいかないのが麻雀というゲームだ。
久々にAリーグまでいって思ったけど、昔と層の厚さが全然違うね。実力だけで負けたとは思ってないけどさ(笑)。それでも勝ちにくいのは事実。現に降級しちゃったし。でもこのままじゃ終われないね。
(昨季A2リーグで奮闘するも、無念の降級となった)
もう1度あの舞台に戻りたい。
そして今度こそ麻雀バカ日本一だと言いたい。
あの日飯田さんが言ってくれた言葉を叶えたい。
だからそれを達成するまでは辞められないよ。
現在は関西でゲスト活動や最高位戦の運営、夕刊フジ杯での監督業や解説などマルチに活動する崇。その忙しい中でも関西で行われる研究会に出向くなど、麻雀の研鑽を怠らない。
圧倒的な人柄と社交性で人気も高い。しかし崇は自分から目立っていく事はあまり好まないタイプだ。
自分の行いに周りが賛同して応援してくれるなら嬉しいよね。
崇は常日頃こう語っている。だからこそ筆者を含め、そんな崇の背中を見て憧れ育っていく後輩が多いのであろう。
まだまだプレイヤーとしても諦めない崇。飯田正人が叫んだ言葉を胸に、あの日の忘れ物を取り返しにいく旅は続く。
今を励む崇に再び眩い光が差す日はもう近いかもしれない。