コラム・観戦記

FACES - “選手の素顔に迫る” 最高位戦インタビュー企画

【FACES / Vol.23】宇野公介 ~Cリーグ降級からAリーグ復帰!最高位戦の四半世紀を支えてきた不屈の男~

(インタビュー・執筆:いわますみえ)

 

遡ること24年。昼間の彼は、岸部四郎氏を彷彿とさせる穏やかな風貌にダークスーツをきっちり着こなし、丁寧な口調で新人を指導する先輩。絵に描いたような好青年だった。

かの名作『ジキル博士とハイド氏』に例えていえば、ジキル博士の方だ。 

そして夜…

そこは最高位戦C2リーグ後の飲みの席。昼間に好青年の顔で立会人をやっていた彼は、酔っ払って騒ぐ騒ぐ…

「え?誰?このヒト」

俗に言う「酒癖がナントカ」のヒト。ハイド氏の方だ。

1998年、それが宇野公介との出逢いだった。

 

宇野 公介(うの こうすけ)

選手紹介ページ https://saikouisen.com/members/uno-kosuke/

Twitter https://twitter.com/kotan0820

 

井出さんがいたから最高位戦を受けた

最高位戦の奨励会*に入ったのが18歳の時でした。

(*当時最高位戦には奨励会というシステムがあり、正規合格する前の選手が在籍していた。日本将棋連盟の奨励会と同じようなシステムで、正規合格は狭き門であった。)

19歳で最高位戦に合格しました。同期は須藤泰久さんと倉田悠志さん(倉田についてはその後、1度退会し再入会しているため、データ上は再入会時の入会期になっている)。Mリーガーのコバゴー(小林剛・麻将連合)は1期後輩です。

井出さん(井出洋介・麻将連合)が大好きで、井出さんがいたから最高位戦を受けました。高見沢さん(高見沢治幸・麻将連合)のことも尊敬していて、高見沢さんのように麻雀の歴史に詳しくなりたかったけど、学ぶことが多すぎて自分にはとてもたどり着けない境地だなと途中で思いました。

ご存知の方も多いだろうが、宇野が入会した1995年当時には麻将連合はまだ発足しておらず、井出選手・高見沢選手はともに最高位戦の選手であった。

そして、1997年に麻将連合が発足する。当時はダブル登録がOKだったため、宇野は麻将連合のテストも受けたそうだ。結果、麻雀問題には手応えがあったものの、一般教養に全く歯が立たず不合格。

落ちて悔しかったため麻将連合の育成会にも入ったが、その後ダブル登録が禁止となったため、最高位戦を選ぶに至ったとのこと。

ちなみに筆者は、麻雀ファンの方に麻雀団体の説明をするときには「プロレス界と似ています。特色を少しずつ異にする団体が複数あるのです」と言っている。個人的に「新日本はここ、全日本はここ、ノアとみちのくはここ」のようなイメージがあるが、この辺りはご想像にお任せする。

 

父から言われたのは「なんだ、高い金払って学校行かせて雀ボーイか!」

さて、一般教養という言葉から学歴を連想したため、宇野の学歴について改めて聞いた。

生まれは東京。最終学歴は明星学園高校卒です。在学中は野球部に在籍していましたが、外野の補欠(笑)。野球と麻雀三昧の高校生活を送ってましたね。大学進学する気持ちはまったくなかったです。

高校卒業後、吉祥寺の『弾飛瑠(だんひる)』で働き始めた宇野に父親が放った一言は「なんだ、高い金払って学校行かせて雀ボーイ*か!」だったのだそう。

(*雀ボーイ=雀荘メンバーの昭和的呼称。ちなみに筆者はスタッフと呼ぶのが好み) 

お父さんの言いたいこともわからないでもない。当時の麻雀店といえば、「胡散臭い」の代表選手みたいなイメージだったのだと思う。

うちの母も「麻雀なんてそんなカタギじゃないことやって」とよく嘆いていた。筆者の場合、自分が出ている雑誌やDVDをコツコツ送り続け、お怒りもだんだん解けていったが、きっと宇野のお父さんも同じような気持ちだったのだろう。

放送対局が毎日のようにあり、有名プロやMリーグの話題がネットニュースになるような今日とは隔世の感がある。そういう時代だった。 

そんなお父さんも後年「公介が麻雀打ってるのテレビでやってるぞ」とご母堂に話しかけるようになったそうだから、いずこの親も同じだ。可愛らしいエピソードだと思う。

 

決定戦に5回出て届かなかった最高位

お父さんが「テレビでやってる」と言った対局は『最高位決定戦』。

宇野はなんと決定戦に5回も出場している。 

20代でAリーグに所属したときは、「最年少最高位を取れるだろう」とか思っていましたね。でも当然そんなに甘くなかった。

勝利の女神が最高位決定戦で宇野に微笑むことは未だない。

古久根英孝が最高位を獲った年、最終戦の南1局まで宇野が最高位ポジションだった。しかし、その後古久根にまくられ、オーラスにもマンガンツモで最高位になれる条件があったが実らず。当時のことを宇野はこう振り返る。 

対局を見返して「こうしてたら勝てたかなあ」っていうのはあります。

のくっつき聴牌の形から何を切るかで、一盃口の目を残して結果的にそれが敗着になったり。いつもだったらを切っているはずなのに。

わかる!わかりますとも!

実はインタビューの場で宇野と筆者が語り合っていたこと、それは「ふたり合わせて決定戦に10回も出ているのに、未だ最高位戦or女流最高位を獲っていない」という悲しい共通点だった。

各自5回ずつ決定戦に残っているにも関わらず、2人とも優勝できたことがないのだ。

よく「ここぞというところで和了りをモノにできる人」を「アイツは持っている」と言い表すが、もしそんなものがあるなら宇野と筆者は「持っていない代表」であろう。 

麻雀は4人で打つところが他の競技と決定的に違うところだが、それにしても5回も出ていたら一度くらいは優勝できそうなものだ。勝負の世界はかくも厳しい。

 

AリーグからCリーグまで降級したとき、宇野の心境は

そして女神は微笑むどころか、宇野をC1リーグまで叩き落とす。

落ちた要因かどうかはわからないけど、当時は東風戦ばっかり打ってました。C1まで落ちちゃったけど、元々所属リーグについては「今はたまたまここにいるだけ」って思ってるタイプなんで、焦りとかはなかったですね。

スキルアップのためにやっていたことは、麻雀教室で教えている生徒さんの牌姿を見て、自分ならどう打つかなって常にシミュレーションしてみること。例えば、その打牌がAリーガーのものだったらと考えてみる。それが自分にとっての練習ですね。

私設リーグや勉強会は、肌に合わないので出ていません。練習のやり方は人それぞれだと思うんで、自分に合う方法を見つけるのが大事だと思いますね。

そんな宇野に女神が微笑んだのは、2011年 第6期 飯田正人杯 最高位戦Classic。

実に入会17年目のことであった。

このとき、筆者は我が事のように嬉しかった。

「長年コツコツとリーグ戦に出続けて、努力が報われる」を体現する選手こそを理想としているし、尊敬しているから。

これは余談だが、そのときに祝勝会を開き、ブランド物のネクタイをプレゼントしたのだが、どうもあまり着けてくれている気配がない。一方、よく見るのは「酔っ払ってビールをぶっかけてしまったので、お詫びにあげた安物のネクタイ」である。

あるとき「なんで?」と聞いたら、「高い方のネクタイは勝てないから。こっちの方が成績がいい」との答えが返ってきた。

理論的な性格かと思っていたが、意外と験を担ぐタイプだった。

 

験担ぎといえば、宇野は数十年前に、故・飯田正人永世最高位と金子正輝にもらったサインを今でも大切に持っている。

金子にはTシャツに書いてもらい、それを着て最高位決定戦にも行った。ところが、白いワイシャツに文字が透けてしまっていて、観戦に来ていた水巻渉(筆者の同期で宇野とも仲が良い)に笑われたそうだ。

C1リーグまで落ちたときに考えていたのは「ストレート昇級してAリーグに戻ったら40期に戻れるということ。40期という節目の年にCリーグから帰ってきて最高位獲ったらかっこいいかなって。そして、実際40期にAリーグに戻れた。最高位は獲れなかったんですけどね。今はA2に落ちちゃってますが、やはり焦りはありません。 

ここで、昔と今の最高位戦リーグを経験している宇野に、昔と今では全体のレベルなどに違いがあるかを聞いてみた。 

例えば、今のA2は当時のB1ということになりますが、そこの比較でいくと、今の方がレベルが高いなあって感じますね。

最高位戦に在籍して27年目の宇野が言うのだから、最高位戦もどんどんレベルアップしているのだろう。大変に喜ばしいことだ。

 

17年間理事会の一員として激動の時期を支えた功労者

そういえば、昔はお酒飲んで麻雀を打つ人が嫌いでした。それから、野球に例えれば「監督も知らないような細かいルールを選手は把握しているべきだ」とも思ってましたね。

原理主義的とまで言えそうな潔癖さだと感じるが、今の宇野からはそんな潔癖さは感じられない。

というか、初めての邂逅ですでに酔っ払いだったし(笑)。 

少し話が逸れるが、そんなハイド氏的酔っ払い時の宇野が、17年前に新人の鈴木聡一郎(現FACES編集長)に言った言葉がこれだ。

僕や君たちみたいにフラットに麻雀界を捉えることができる世代が、団体の垣根を越えて活動していかなければならない!頑張ろう!

この言葉に触発された鈴木が、プレイヤー以外に自分にできることを模索した結果、麻雀の記事を書くようになったというから素晴らしい。宇野はこのときのことを全く覚えていないらしいが、麻雀に対するアツさが自然と溢れ出たということなのだろう…ということにしておく。

 

話は戻り、原理主義的考え方だった宇野を変えたのは、代表・新津潔阪元俊彦だったのだそう。

新津は大変に明るい性格で人生経験豊富だし、阪元は長く麻雀教室の講師をしている。

若いころにプレイヤーとして活動することを望む選手が多かった当時、宇野は21歳から麻雀教室の講師をしていた。そこに対し、新津・阪元の人柄と経験が、若くして講師を勤める宇野の羅針盤となってくれたのだろう。つくづく、最高位戦には素晴らしい先輩がたくさんいる。

 

新津といえば、筆者が入会した24年前にはすでに代表の座にあった

そして宇野は、そんな新津の下、最高位戦の理事・理事補佐を17年間務めていた。昔の理事会はまさに手弁当で、給与はおろか交通費さえ出ない、そんな時代だ。

最高位戦の内規に「25年目を迎えた選手は、理事会が審査して名誉会員となるかどうかを決める」というのがあるが、一昨年宇野はその審査に通らなかった。

宇野以前の選手は全員名誉会員になっているが、確かにその数は多くない。一方、宇野以降にはたくさんの選手が控えており、「今後その全員を名誉会員にするのはどうなのか」という議論が理事会内であったと聞いている。

議事録を読んだ筆者はすぐに宇野に電話した

「なんで?こうちゃんが審査通らなかったら、あたしはもちろんのこと、大体の人が駄目じゃない!」

宇野ももちろんガックリきていた。

こういうのってさ、気持ちなんだよね。名誉会員になった特典とかはそんなに要らなくて、要は「長いことがんばってきたことが何かの形になる」ってことが選手のモチベーションにもつながると思うんだよね。

四半世紀もの間、休むことなくリーグ戦に出続け、理事会メンバーも17年間務めた選手の労をねぎらわないのは違うと思う。ただ、最高位戦も大所帯になり、昔の規定がそのまま当てはまらないケースも増えているのも事実だ。FACESの編集長であると同時に理事でもある鈴木に聞けば、多様な選手を迎え入れるべく選手種別を整理するプロジェクトが進行中で、その中で名誉会員などの話も検討されるとのこと。最高位戦も未来に向かうべく、変わっていっている。宇野のような選手が報われ、選手がもっと頑張れる仕組みに変わっていくよう期待している。

 

おわりに~調子に乗ってどこまでも~

まとめとして、選手として聞きたいことを聞いた。

まず気になるのは、昔から知る間柄ということもあり、加齢による衰えを感じるかどうかである。

46歳になる宇野ほどのベテランといえど、うっかりミスはあるのだそう。

隣の牌を切っちゃったり、ノーテンリーチしちゃったり、そういううっかりミスみたいなものは増えてきたかなあ。

でも、そういうミスって大したことじゃないと思ってやってます。確固たる雀力がある人は一定以上の答えを出し続けられると思うので、そういうミスを大切な局面でしなければ大事故にはならない。経験則もあるし。そう思ってやるようにしてます。

頼もしいお言葉だ。年々記憶力と集中力の衰えを感じている筆者には、励ましの言葉のように聞こえた。

 

最後に、目標としていることと、座右の銘を聞いた。

目標としていることは、とにかく健康で完走すること。

「最高位」といった具体的な目標が返ってくると思っていた筆者にとっては少々意外な答えだったが、これまでの話を聞いていればすぐに納得できた。宇野にとって、現在地はあくまでたまたまいる場所なのであって、健康に走り続けることさえできれば結果は自然とついてくるものなのだろう。

一方で、最後に語った座右の銘が真逆で面白かった。 

座右の銘は「調子には乗るもの」ですね。人間、調子には乗っちゃうんですよ。だから、勝ったら勝ったで調子には乗っていけばいいと思うんですよね(笑)。もうこればっかりはしょうがない。

どんどん調子に乗って、早く宇野最高位の祝勝会を開かせて欲しいものだ。

知り合ってもうすぐ四半世紀

どっちの祝勝会が早いか、競争だ。

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