コラム・観戦記

採譜者フミさんの『迷宮を歩く』 ④

ぼくには、ずーっと日々を支えてきた、大きな趣味が二つある。
もちろんこんなコラムを書いているのでわかるように、ひとつは麻雀。
そしてもうひとつは読書。それも「小説」に限られている。

なんだか、年寄りの繰言のようだが(あっ、実際に年寄りだったね!)、最近の売れている本も読んではみるんだけれども、大半がぼくが「小説」と思っているものとは違ってきている。
純文学とエンターテインメントとの垣根の必要性が無くなっているという論には賛成である。でも全部をひっくるめて「小説」たらしめているのは、文章の力だと思う。


最近の苦手な本は、その文章がなんだかプロットの説明をしているに留まり、描写とは程遠く、なんだかテレビの2時間ドラマの脚本を読んでいるように思えてしょうがない。
確かに読んでいる間は時間を忘れて、例えば提出された謎を解き明かしてくれるのを期待して、ページを繰るのに夢中になる。でも、もう一度読み返してみたい気にはさせてくれない。


ぼくには、繰り返し何回も読んでしまう大好きな作家が何人かいる。
そのひとりは色川武大。阿佐田哲也の名前で麻雀小説も書いているし、今の競技麻雀界の始祖でもある。
この最高位戦にも、確か1期2期と出場している。本当に独特の雰囲気を持つ不思議な人物で、彼自体をまたゆっくりと小説・麻雀の両面で取り上げてみたい。


氏の言葉で、「意味の小説は、存在の小説にはかなわない。麻雀もしかり・・・」というものがある。

ぼく自身としては、どちらも評価されると思うのだが、今回はこの言葉を基にして、両方の世界を探ってみたい(麻雀のコラムというには、随分とひとりよがりなものになってしまうが…)


さて、ぼくが繰り返し読んでしまう作家といえば他に芥川、太宰、漱石なのだが、芥川の文章は緻密で丹念に作られた工芸品のようで、作り出す空気は澄み切っている。俗なる世間から一瞬で「善きもの」を掬い上げてみせてくれる。
反対に太宰の文章は、いじけてみたり、おどけたり、または空威張りしてみたりと、とても精緻なんて代物じゃない!でもその垂れ流しのような書きっぷりの底に、やはり「善きもの」への切なる願いが、はっきりとある。

正反対の二人だが、「意味」を探るために、しっかり「文章」を計算している。
そこへいくと漱石の文章はとても平易で、先の二人にあったような研ぎ澄まされた一瞬の視線を感じさせない。ゆっくりと時間が流れていくように物語を終りへと導く。そしてすべてを読み終わった時の、あの感覚はなんだろう。
色川武大も、最後の作品「狂人日記」のあと、どうやら僧籍に取り組んでいこうとしたらしい。氏にとっては漱石の作品こそが、「存在」の小説だったのだろう。

 

そろそろ、麻雀へ話をすすめよう。
「存在」とは自覚して手に入るものではないので、まずは基礎的な取り組みから始め、ひとつひとつの事象を検証し、「意味」を探っていく。
今のAリーグの選手達も、それぞれ独自の方法でその精度を高めようとしている。

最高位戦の、いや麻雀界の顔ともいえる金子なんかは、まずその「大家」だろう。彼の麻雀にはしっかりとした「文体」がある。麻雀とはこういうものであってほしい、あるべきである、という彼なりの切なる願いが見え隠れする。

 

ぼくの方が年上なのであえて言わせてもらおう。

そのこうあるべき全体図と相容れない事象が出現すると、とまどい、うろたえ、「おかしいなぁ」などとうめいたり、髪をかきむしったりして考え込んでしまう。

そうかと思うと、自分がアガったのではなくとも、彼の思い描いた通りの進行と結果を目の当たりにすると、「うんうん」と嬉しそうに頷いたり・・・。

「やんちゃ坊主」という言葉が浮かんできて、こちらもついつい微笑んでしまう。まるで太宰の小説への取り組み方のようだ。


一方、故飯田正人永世最高位は、自分の麻雀観で麻雀を支配しようとはせず、どちらかというと麻雀に自分を委ねているような、悠然としたところがあった。あえていうならば、漱石の味だ。

 

今のAリーグには飯田のような表情を持つ打ち手が少なくなっている。

その中で唯一(?)その茫洋とした「風合い」を持つのが張だろう。

彼とはよく話す機会があるのだが、牌譜を見ながらコメントを求めても、全体的な感想しか返ってこない。あのリーチの切り順では、とかイーシャンテンの受け入れを考えると、ここは打何々であるべきだったなどとは、彼の口からこぼれた事がない。
「ラフ」さを意識的に導入しているようで、細かな視点よりも全体像に対する感覚を優位に置いている。

 


 

7節では1回戦かろうじての2着、2回戦南1局の親番9巡目、



 

からドラツモで打、七対子を主眼に置いての進行だったので、二枚目のも動かず、自分からが三枚、が三枚見えていて、対子手にしても順子手にしてもはまぁ優秀だろう。
ぼくなら(なにしろ七対子が嫌いなので)打。ペン、カンの刻子に比重をかける、そうなるとチーやポンが必然となってきて、軽い手となってしまう。
終盤ならいざ知らず、張はそういう進行を嫌ってゆったりと、この手の行く末を見据えているのだろう。


3回戦はトップ、4回戦もオーラス17400点持ちのラス目から、

 

 

でリーチ、二巡後にツモで2着まで浮上。

今期は中々苦しい展開が多く低迷していたが、また上位を狙えると期待している。

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