(インタビュー・執筆/いわますみえ)
新幹線のない時代に、29年の長きに渡り、長野から東京へと通い続けた男がいる。
清水 昭(しみず あきら)
彼の名は、清水昭。最高位戦 第6期入会の大ベテランだ。
最高位戦と共に歩んだ彼の半生をぜひ知っていただきたい。
メカニック清水
清水は、1949年に長野県長野市で生まれた。父は建設業、母は専業主婦だった。
高校までは長野から出たことがなかったんだ。機械いじりが好きな少年で、テレビやラジオを解体したりしていた。当時の機械は、素人でもいじってみれば構造がわかる物が多かったな。秋葉原の電気街にも行ったなぁ。
(※当時の秋葉原は、今と違ってマニアな街だった。一畳くらいの極小店で、細かい機械部品を所狭しと売っていた)
幼少期の清水。祭り装束姿が愛らしい
家族一緒の写真。前列左から2番目に座っている清水
バイクにも乗っていたよ。HONDA ドリームC72という250ccのバイクで、富山や茅ヶ崎まで走っていた。ある日なんて、甲府を目指していたはずなのに南アルプスに着いちゃった。土砂降りで途方に暮れたけど、なんとか帰って来られたよ。事故を起こしたことはないけどね。
高校時代の清水。愛車とともに
メカ好きが高じて、高校卒業後は中部日本自動車整備学校(現 トヨタ名古屋自動車大学校)に進学した。
寮に入っていたんだけど、みんなが興じている麻雀には興味がなかった。
「みんなと同じことなんてやってられっかよ」みたいな、若さ特有の突っ張りだったんだろうね(笑)。専門学校を卒業して、長野に戻って「トヨタカローラ長野」に就職したんだ。でも一年と保たずに辞めちゃった。
29年もリーグ戦を戦っていた清水像とはかけ離れた印象だ。
しかし1年もたたずに辞めたのには理由があった。清水は整備士として入社したのだが、辞めたのは整備士であって、会社自体を辞めたわけではなかったのである。
自身は会社の中枢となるべく、やる気もあったんだけど、営業の不甲斐なさに地団駄を踏む思いだった。「もっと車を売ってくれよ」って思っていたね。一整備士としてより、会社全体の業績アップを願っていた。
時代は高度成長期。マイカーブームで車を持つ家庭は増えていたが、巷では日産が強く、長野ではトヨタ車の売れ行きが芳しくなかったそうだ。
「よし!俺が売ってやる!」と一念発起して販売に移動したんだ。ノルマはクリアして、プラスアルファでそこそこ売ったかな。
昔を思い出して、清水は笑う。パワフルさと実行力の高さは、後輩である筆者から見ても凄いものがある清水のことだから、恐らく売りまくったのであろう。
サラリーマン時代から始めた麻雀、そして麻雀店を起業
さて、ここでようやく麻雀の話が登場する。
当時のサラリーマンの娯楽といえば〝酒・ゴルフ・麻雀〟がセットであった。
清水も上司の家でお酒を嗜んでいるうちに、麻雀を覚えたのである。
俺が新車を売って、お客さんから下取りした車を綺麗に整備して、別のお客さんに売っていたんだ。売る時に一台当たり70,000円くらいの利益を得ていた。これはみんなやってたことだから、時効で許してもらおう(笑)。
70,000円っていうのは、当時の初任給の3倍くらいの金額だったんだ。このお小遣いで麻雀を打ってた。この時、23歳くらいだったかな。
初任給の3倍の額がお小遣いとは、羨ましい限りだ。
そして24歳になった時、最初の結婚をする。お相手は社内で経理をしていた女性。清水曰く、女性の方からアプローチされたそうだが、真偽のほどは読者の受け取り方にお任せする。
当時は麻雀に割く時間が多く、奥様から散々文句を言われたそうだが、ほどなく長男に恵まれる。その後所長昇進の話が来たそうだが、これを断って退職した。
定年間近だった父が「起業するなら出資するぞ」と言ってくれたんだ。今も兄は飲食店を、姉は塾を経営しているし。
お父様自身は会社員だったが、独立心旺盛な方だったのかもしれない。
そうしてできたのが「マージャンクラブ チェック」だった。本当は車の販売店もやりたかったのだが、個人経営の販売店では大手に太刀打ちできないと考えて、当時ブームだった麻雀に狙いを定めた。
最初は約100坪の土地に、麻雀店と喫茶店をオープンした。手狭になってきた段階で、現在地に移転することとなる。
そのときに八十二銀行から融資を受けたんだけど、「350坪もある物件の融資を受けるのにトントン拍子で話が進んだから、この銀行はおかしいんじゃないか?」と疑ったんだよね。
実は融資話がトントン拍子で進んだのには訳があった。地主がチェックのお客さんで、毎日清水の仕事ぶりを見ていたのだ。
清水の人物を高く評価して、土地を貸すことを快諾したのだという。まさに慧眼としか言いようがない。
麻雀業はすぐ軌道に乗ったよ。時代も良くて、小島武夫さんが11PM(イレブンピーエム、日本テレビのワイドショー番組 24年間放送された人気番組)に出ていた頃。小島さん、好きだったなぁ。小島さんという麻雀プロによって、競技麻雀の存在を知ったんだ。「東京はこんな団体があるんだ。長野は東京に10年は遅れを取っているなぁ」って思ったよ。
その頃、「近代麻雀クラブ」というのがあって、岡田和裕常務編集長と知り合ったんだ。チェックがすぐ軌道に乗ったのは、彼の協力のお蔭もあると思っている。
清水はサラッと語っていたが、岡田編集長と知り合った経緯を聞いて驚いた。
27歳の頃(1976年)、書店で「近代麻雀第二号」を見つけ興味を持ったそうなのだが、2年後の1978年に【近代麻雀主催 牌王戦】に出場して、清水はなんと優勝する。
小島プロに憧れて、この頃から「麻雀を打つなら、強くなりたい。プロになりたい」と思うようになったそうだ。
リスクヘッジをしながら29年間通い続けたリーグ戦
みなさまご存知のことと思うが、最高位戦は近代麻雀が主催していたタイトル戦をその源としている。タイトル戦が始まったのが1976年。
清水は最高位戦第5期(1980年)に受験したが、不合格だった。この年に合格したのが、阪元俊彦や故・馬場裕一(通称バビィ)プロ。1980年といえば、筆者ですら小学生だ(笑)。「生まれてもいないよ」という読者も多いだろう。
そして翌年の第6期に合格する。同期は、飯田正人(永世最高位)・金子正輝・伊藤優孝プロ(順不同)。
のちにタイトルを多数獲得するプロ達が入会した年であり、「花の6期」と称されている。
故 飯田正人 ※最高位戦HPより
金子正輝 ※最高位戦HPより
伊藤優孝プロ ※日本プロ麻雀連盟HPより
ここから清水の東京通いが始まる。
信越本線だけで3時間。ドアtoドアだと片道3時間半の道のりである。
長野新幹線ができるのは1997年のことだから、17年も往復7時間をかけて通った計算だ。
不測の事態に備えて前泊していたそうなので、交通費に加えて宿泊代もかかる。
俺に言わせれば、地方から来るならリスクヘッジをするべきで、台風とかは言い訳にならないよ。実際、リーグ戦に出ていた29年間無遅刻無欠席だったしね。
これについては、筆者が記憶しているエピソードもある。
当時Aリーグに在籍していた清水だったが、同じリーグに在籍していた奈良在住の選手が新幹線の不通を理由に欠席したことがあった。この時に「台風が来るのなんてわかっていたことなんだから、前泊すればいい話だ」と語る清水に、みな一言もなかったことを覚えている。
自分語りになって恐縮だが、筆者は今期27年目を迎える。清水の29年には及ばない在籍年数だが、白状するとすでに2回遅刻している(欠席はない)。
理由は、恥ずかしながら、開催日の勘違いと開催会場の勘違いが一度ずつ。結果的に両方とも節消化はできたのだが、例え1分でも遅刻は遅刻だ。
【29年間、決められた場所に決められた時刻に間違いなく行って、リーグ戦を戦う】ことがいかに難しいか、自身を顧みるとよくわかる。自然災害もあるし、体調不良もある。ましてや店舗経営をしながら、一泊二日で参戦し続けるのは、超人的といっても過言ではないと思う。
しかも、自身の店での大会運営も37年間続けており(これについては後述する)、この間に二度結婚して、3人のお子さんを育て上げている。
スーパー⚫︎ンなのか?
1997年に再婚した奥様は、なんと21歳下!俗に言う歳の差婚である。
自分達とそう変わらない年齢のオトコが求婚に現れた時の、奥様のご両親の心中やいかに。
ひまわりのように明るい性格の奥様と筆者は一歳違い。最近はトシによる不調の多さを嘆き合う仲である(笑)。
「自分で言うのもナンだけど、けっこうモテたんだよ」 とは、清水本人の弁。
いや、わかりますよ、清水さん。パワーに満ちている人には引き寄せられるものだから、女性も例外ではないですよね。と心の中で筆者も言う。
そんな超人清水だが、一度だけリーグ戦の日程変更を余儀なくされたことがあった。
父が亡くなって、葬儀の日とリーグ戦が重なっちゃったんだ。
当時は日程変更すると、マイナス80ポイントのペナルティがあった。
「この程度のペナルティで負けたりしないぞ」って奮起したけど、結果は降級だった。
現行ルールとは違って、当時は現クラシックルールである。一発ウラがなく、トップ+12ptのルール。このルールでの80,000点は、現在の最高位戦ルールと比重が違う。
さすがの清水でも降級はまぬがれなかった。
人間、生きている限り冠婚葬祭というものがある。筆者が父の死を知ったのは、奇しくも清水の主催する大会ゲストとして長野にいた時だった。不幸中の幸いにも大会ゲストの仕事は終わっていたので、翌日早めに帰京することで事なきを得た。
あと父の場合は余命宣告を受けていたので、事前に「葬儀とリーグ戦が重なってしまったらどうすべきか」事務局に確認する時間的余裕があった。しかし、葬儀以外は予定が立てられるが、人の死に予定というものはないから、リーグ戦との兼ね合いは難しいところである。
50代でAリーグで戦い続けた鉄人、ついに引退へ
さて、ここからは清水の公式戦についてお話することとする。
發王戦の決勝には三度勝ち進んでいる。第1期・第8期・第14期だね。でも一度も勝てなかった。
俺って、そんなに麻雀強くないんだよ。ただ、時おり勝利の女神が微笑んでくれて、決勝や昇級のチャンスに恵まれたんだ。けど、やっぱり優勝できるほど麻雀が上手くはなかったね。決勝の舞台で打っている時も、近代麻雀の読者代表のような気持ちで打っていたんだと思う。
プロって呼ばれるのはおこがましいと自分では思っているよ。だってみんな上手いじゃない。試合後の感想戦なんかも細かいところまで憶えているし、みんな頭いいなーって。
第1期發王戦の記事。若かりし土田浩翔の姿もある
※麻雀ゴラク 1985年10月号より
第28期にはAリーグまで昇り詰めるも、第31期にB1リーグ、第33期にB2リーグへと降級し、2009年の還暦を期にリーグ戦を休場することとした。
58歳を超えたあたりから手出しツモ切りを記憶する力が衰えてきたと感じていて‥あと相手の表情や所作などから情報を得る力も衰えたと感じたんだ。
周囲よりも雀力が劣っていると自覚しているのに衰えたとなると、もうリーグ戦は戦えないなと思って、引退することにしたよ。
引退時に、後輩有志で還暦祝いを贈ったことを思い出した。還暦とは思えない若々しい清水に、赤い帽子とちゃんちゃんこは似合わないと考え、赤いニットとトランクスと靴下を選んだ。
いかに若々しい人でも、年齢を重ねれば記憶力・瞬発力・体力が衰えるのは当然である。逆に、多忙な中50代でAリーグを戦えていたことに驚きを禁じ得ない。
現在の競技規定は、基本的には若く健康であることを前提としている感があるが、最高位戦も50期の節目を迎えて、その前提を再考する必要があるのではないかと筆者個人は考えている。老獪な麻雀を見る機会として、シニアリーグの創設なども一興かと思う。
現在の清水は最高位戦の名誉顧問を務めている。その他、「長野県麻雀組合連合会」の会長職を辞した後は、「長野県麻雀競技会」を2016年に立ち上げ、会長として活動している。
長年にわたり、最高位戦選手・経営者・家庭人の他に、組合長もやっていたとは恐れ入る。一体何足のわらじを履いているのだろう。
〝そういえば、清水の愛する地元長野にはかの有名な善光寺があって、仁王様の所に巨大なわらじが奉納されていたな〟とふと思った。
善光寺 ※筆者撮影
地域と共に生きてきた
最後に清水の座右の銘を。
「地域が一番」
麻雀に於いて、東京の一極集中は否めないけれども‥その土地土地で麻雀を盛り上げていきたいと活動しているんだ。俺がやっている信州オープンの優勝者は、發王戦本戦に出場できるから、東京での麻雀を経験してもらうためにも頑張って継続したい。
前述したチェックの大会、メインフェスティバルは今年55回目を、長野カップは38回目を迎える(メインフェスティバルは年に複数回開催したことがあるので、数字が違う)。
メインフェスティバルは楽しいお祭り型麻雀大会、長野カップは純粋な競技麻雀大会。
まったく趣向の違うふたつの大会を37年間開催しているチェックには、メインフェスティバルだけで約70名もの参加者が来場する。
清水を慕って、最高位戦選手も毎年何名も参戦しているのだ。最高位戦選手の氏名を列記したいところだが、なにぶん人数が多すぎるので、常連の選手のみ書かせていただく。
『しまじぃ』こと嶋村俊幸・白鳥ケイタロウ・桐生美也子・永島大樹、は毎年参戦している。
かくいう筆者もそのひとりで、25年にわたって参戦させてもらっている。
最高位戦以外では、故 馬場裕一(バビィ)プロ・黒木真生プロ・梶本琢程プロ・ケネス徳田プロ・片倉まちプロなどのバビロン軍団の面々が毎年参加していた。
清水のことが大好きだった馬場さんが昨年亡くなられたので、長野詣での仲間が減って寂しいかぎりだ。
お客さん達は気さくで優しい方が多く、半世紀の間に親しくなった方もたくさんいる。
長野名産のシャインマスカットを毎年送ってくださる方もいて、自分の懐具合では手を出しかねる高級フルーツにありつけるのはとっても有難い(笑)。これも「清水さんの後輩」である役得だと思っている。
大会の賞品には、メカニック清水が丹精した全自動麻雀卓のほか、地元企業から協賛された品が数多く並ぶ。
人徳とはかくも大きな協力を呼ぶのだなぁ、と感心することしきりだ。
俺、あと10年くらいは生きるんじゃないかと思っている。
お店も最近は息子が本業の傍ら手伝ってくれるし、大会ももうちょっと続けて行きたいな。
お店の外階段を駆け上がるお姿を見るに、後期高齢者とはとても思えませんよ!清水さん!
あと10年と言わず、20年でも30年でも長生きして、愛する最高位戦の行末を見守っていてください。
清水と新津代表。44年の付き合いだという
10年ほど前の清水と筆者。ちょろりと出した舌がお茶目である
清水と筆者、去年の大会にて
※文中の最高位戦選手は、敬称略とさせていただきました